私の子供の時分のことを書いてくれとのことであるが、当時の事はおおかた忘れてしまって、記憶にのこっている部分はいたって少い。私の生れたのはもう三年経つと沖縄が廃藩置県になるという明治九年のことだ。その頃の沖縄といえば、熊本鎮台の分遣隊が古波蔵村に置かれるやら、松田がやって来るやらで、随分物騒であったろうが、残念ながら当人はそんなことなぞ覚えていようはずがない。
物心が付いた時分、私の頭に最初に打込まれた深い印象は私の祖父さんのことだ。私の祖父さんは、十七の時、家の系図を見て、自分の祖先に出世した人が一人もいないのを悲しみ、奮発して支那貿易を始め、六、七回も福州に渡った人だ。私が四つの時には祖父さんはまだ六十にしかならなかったが、髪の毛も鬚も真白くなって、七、八十位の老人のようであった。いたって厳格な人ではあったが、また慈悲の深い人であった。今日でいう胎内教育のことなぞもよく心得ていて、私が母の体内に宿ると、母の食物やかれこれに非常な注意を払ったということだ。私が生れ落ちて乳母をやとうという時にも、十名位の応募者を集めて、身元や体質や乳などを試験した上で採用したとのことだ。
私は生れてから何不足なしに育てられたが、どうしたのか、泣くくせが附いて家の人を困らせたとのことだ。
いつぞや私が泣き出すと、乳母が私を抱き、祖母さんは団扇で私を扇ぎ、お父さんは太鼓を敲き、お母さんは人形を持ち、家中の者が行列をなして、親見世(今の那覇警察署)の前から大仮屋(もとの県庁)の前を通って町を一周したのを覚えている。もう一つ家の人を困らせたことがある。それは私が容易に飯を喰べなかったことだ。他の家では子供が何でも喰べたがって困るが、私の家では子供が何にも喰べないで困った。そこで私に飯を喰べさせるのは家中の大仕事であった。ある時祖父さんは面白いことを考え出した。向いの屋敷の貧しい家の子供で私より一つ年上のワンパク者を連れて来て、私と一緒に食事をさせたが、私はこれと競争していつもよりたくさん喰べた。その後祖父さんはしばしばこういう晩餐会を開くようになった。
それから祖父さんは、私と例の子供とに竹馬を造ってくれて十二畳の広間で競馬のまねをさせて非常に興に入ることもあった。その時には祖父さんはまったく子供となって子供とともに遊ぶのであった。
先達て途中で私を呼びとめた者がいるから、誰れだろうと思ってふり向いて見ると例の竹馬の友であった。彼は私の祖父さんのことは今に忘れられない、あんな慈悲の深い人はまたといないといって涙ぐんだ。
祖父さんは猫が大好きであった。その頃私の家には、十数匹の猫がいたが、いずれも肥え太った綺麗な猫であった。祖父さんは外から帰って来る時には、いつも咳払いするのであったが、十数匹の猫はこの声を聞くや否や、先を争って門の所まで行って、その老主人を迎えるのであった。そうすると、祖父さんは懐からカステラとかカマボコとかいうような御土産を出して、これを分配してやるようなこともしばしばあった。
明治十二年には私は四歳であった。この年はわれわれ沖縄人が記憶しなければならない廃藩置県のあった年であるが、私には当時の騒動のことなぞはわからない。出世して系図を飾るという考えを有っていた祖父さんはこの政治上の変動で全然前途の希望がなくなって、心身ともに俄かに弱ったとのことだ。おまけに大仮屋に出勤していた私の叔父で、当時十五になる利口の青年が、相談なしに東京に連れて行かれたので、祖父さんの落胆は一通りではなかったとのことだ、私は彼の盗まれた日、親戚の者が大勢本家に集まって、人が死んだ時のように、声を立てて泣いたのを覚えている。
そういう心配のために、しばらくすると祖父さんは中風に罹った。歳の暮頃から全身が不随になって、口もきかなかった。そして目ばかりぱちぱちさせて私の顔を見ていた。
今になって考えて見ると、祖父さんはこの恐ろしい世の中で、その最愛の孫の行末がどうなるだろうということばかり考えていたらしい、彼は沖縄が今日のように幸福な時代になろうとは、夢にも思わなかったであろう。私の五つの年の三月に私の唯一の教育者であった祖父さんはとうとう彼の世の人となった。私は白い着物を着て下男に抱かれて葬式に出たのを覚えている。祖父さんの領地の伊波村からたくさんの人々がやって来て行列に加わったのも覚えている。
祖父さんがなくなって後、私の家は急に寂しくなった。この数カ月の間、どういうことが起ったか、またどういうことを私がやったか、よくは覚えていない。ただ旧の大晦日の二、三日前に、私の弟(月城)が生れたので、祖母さんがこれを祖父さんが生れかわったのだといって、喜んでいたのを記憶しているばかりだ。
明けると明治十五年私は六歳になった。この年に東京で博覧会が開かれたので沖縄の方からも多くの人々が見物に出かけた。私の本家の方では盗まれた叔父をこの機会に取り返すという議があって、一番上の伯父さんがわざわざ上京することになった。
叔父が盗まれたというと少し語弊があるが、当時の人は皆そういっていた。ところがその実叔父は盗まれたのではなく、自分で希望していったということだ。今になって考えて見ると、当局者はこの利口な少年を東京につれていって、新しい教育を受けさせる積りであったということがわかる。そこで世間の悪口屋は許田の家では子供を高価で日本人に売ったなぞといっていた。とにかく叔父は東京に行くと間もなく、共慣羲塾に這入って勉強した。そしてさっそく断髪して服装までかえたということだ。してみると、叔父は沖縄から東京にいった最初の遊学生で、しかも沖縄人で断髪した者の嚆矢と言わなければならぬ。ほかに沖縄の先輩となった岸本以下数名の青年は彼と入り違いに上京したということだ。四月に叔父はいよいよその兄さんにつれられて帰省した。故郷を飛び出して満二年で帰ったのだ。家の人は彼が断髪して、見違えるほどになったのを見て吃驚した。そして死んだ人が蘇って来たかのように喜んだ。その日叔父はいたって快闊に話していた。しかし二年の間母国の言葉を使わなかったためか、その語調は少し変であった。私始め親類の子供達は今までに見たことのないオモチャの御土産を貰って喜んだ。叔父は断髪姿で外出しては剣呑だというので、夜分でなければいっさい外出はしなかった。数カ月経って、髪の毛が長くのびたので、また昔のように片髻を結うて、盛んに親戚朋友の家を訪問していた。この年の暮に家の祖母さんが死んだ。叔父は祖母さんの墓参にはかかさずいった。そしていつも私達には東京の面白い話をして聞かせた。ところが翌年の正月に、この新文明の鼓吹者であった叔父は腸チブスに罹って急に死んだ。彼はじつに末頼もしい活溌な青年であったが、十八歳を一期として白玉楼中の人となった。私は今までただ叔父と呼んで彼の名を言わなかったが、彼の名は許田普益であることを読者におしらせしたい。さて時勢はだんだん変って来て、沖縄から公然と数名の青年を東京に遊学させることになったので、本家の方では、こうなると思えばあのまま東京に置いておくのであったといって今更のように後悔した。叔父は今まで生きながらえていたら、まだ四十九歳で、盛んに活動している頃だが惜しいことをしたものだ。こういう事件があったために、私の親類は自然新しい文明に対して恐怖心を懐くようになった。私の家なぞは少し広すぎたに拘わらず、内地人にはいっさい間を貸さないことにした。そして私の家では私達が言うことを聞かない場合には「アレ日本人ドー」といって、私達を威すのであった。私はろくに外出なぞはさせられなかったので、どこに学校があるかということさえも知らずにいた。ずっと後になって、ようやく学校のあることには気がついたが、そういう所に這入ろうという気にはなれなかった。
七歳の時に、私は従弟と一緒に始めてある漢学塾みたいな所におくられた。そこの先生は漢那大佐の外戚の叔父に当る玉那覇某という人であったが、私達はこの人から始めて「大舜」という素読を習った。そして二、三年の間、ここで四書の素読を習った。当時の漢那君は非常なワンパク者で、いつも叔父の家に裸足で這入って来て、イモを取って食ったり、いろいろのいたずらしたりしていた。あまり大騒ぎをして私達の勉強を妨げると、玉那覇は大喝一声で退去を命じたが、未来の海軍大佐は一向平気なもので、叔父をひやかしながら退却するのであった。だいぶ後になって玉那覇先生は「今後の人はこういうものも知っていなくてはいけない」といってイロハと算術を私達に教えた。しかし学校に入学しろとすすめたことは一度もなかった。
私の家では祖父さんがなくなり、また引続いて祖母さんもなくなったので、血気の盛んな私の父はだんだん放縦になって、酒色に耽るようになった。そして家庭の平和は破れて、私は子供心に悲哀を感じた。しかしこういうことは独り私の家にかぎったことでもないから、この事はあまりくわしく述べずに置こう。とにかく当時の沖縄の男子で子供の教育なぞのことを考えるものは一人もなかった。私の母は子供をこのままにしておくのは将来のために善くないということに気がついて、学校に出す気になった。父はこの意見にはあまり賛成しなかったが、母が独断で明治十九年の三月に師範学校の附属小学校に入校願を出した。しかしその時は人員超過で後廻しにされた。その頃、附属の主事の戸川という先生が家の座敷を借りに来たのをさいわい、母はさっそくこの先生をつかまえて一種の交換問題を提出した。それは今後私を附属に入れてくれるなら座敷を貸して上げようということであった。戸川先生はすぐ入学を許可するから座敷は是非かしてくれといって、二、三日経つと引越して来た。私はいよいよ附属に通学するようになった。これが私の十一歳の時である。この時の学校は那覇の郵便局の所にあった。そして当時の新入生で私が覚えている主なる者は当真前那覇区長や我謝教諭である。当時の読本には「神は天地の主宰にして万物の霊なり」というようなことが書いてあったと覚えている。この時の教生はもとの松山尋常小学校の校長祖慶先生であったが、先生はこの時から非常な熱心家であった。一、二カ月経つと祖慶先生が、突然今日は進級試験をやるからといって、一、二の問題を出して皆にきいた。私とそれからもう二人の子供はかなりうまく答えたというので、この日から三人は五級にいって授業を受けることになった。五級の先生は阿嘉先生であった。
那覇での私の学校生活はほんの一、二カ月に過ぎなかった。いくらかお友達が出来たかと思うと、私は間もなく、首里に行かなければならないようになった。この年師範学校が首里に引越したので、今まで附属にいた生徒達は西、東、泉崎、久茂地等の学校に分配されたが、私は戸川先生のすすめによって、首里に行くことになった。その時私は家というものを離れた。はじめて両親の膝下を離れるというので、出発の際などは両親を始めとして、親類の者が十名ばかり、別れを惜しんで、私を首里まで送った。わずか一里しか隔てていない所に旅をさせるのを、当時の人は東京にでも出すくらいに考えていたのであろう。世間ではまだ寝小便をするくらいの子供を手離して人に預けるのは惨酷であるといって、私の両親を非難したとのことだ。実際私は時々寝小便をやらかして先生を驚かすこともあった。
さて首里という所は今日は寂しい都会になっているが、その当時は随分盛んな都会であって、道を歩く時大名の行列に出合わさないことはないくらいであった。私は時々百人御物参といって百名近くの男子が観音堂などに参詣するのを見たことがあった。
はじめて学校に行って変に感じたのは、生徒の言葉遣いや風習が那覇と異なっていることであった。当時はまだ階級制度の余風が遺っていて、貴族の子は平民の子を軽蔑したものだ。こういう所へ私のような他所者が這入ったからたまらない、彼等はいつも私を那覇人那覇人といって冷かした。おまけに私は大きなカラジを結び、振り袖の着物を着て、女の子みたようであったから一層困った。元来那覇では十三歳にならなければ、元服しない(すなわち片髻を結わない)規定であったが、私は十一歳の時に元服して、彼等と調子を合すように余儀なくされた。こういう風であったから、最初の間首里の学校生活は愉快ではなかった。この頃までは九〆といって晩の八時頃になると、円覚寺や天界寺や天王寺や末吉の寺の鐘が同時に鳴り出すので、何となく寂しいような気がして、夜はたいがいは家の夢ばかり見ていた。だから私に取っては、土曜日を待つのが何よりも楽しみであった。土曜の昼過ぎになると、いつも蒲平と太良が駕籠を持って迎えに来たものだ。蒲平は六尺位の大男で太良は五尺足らずの小男であったから、随分乗り心地の悪い駕籠であったが、私には彼等に担がれていくのが何よりも楽しみであった。家に帰えると、両親の喜びは一通りではなかった。お友達も訪ねて来て、首里の話などを聞いて喜んだ。しかし私の言葉が変な調子になっているのを聴いて笑っていた。
月曜日の朝は例の駕籠で首里に上った。今になって考えてみると、首里にいったのは私にとっては非常な幸福であった。それはこの頃の家の悶着を聞かずに済んだから。
私の同級生にはもとの首里区の徒弟学校長の島袋盛政君がいた。彼は幼少の時、私の近所で育った人で、私より一年ばかり前に首里にいったのであるが、その頃はもう首里の方言を使って、首里人と識別することが出来ないようになっていた。
このころは首里・那覇に人力車は一台もなかった。沖縄中に知事さんの車がたった一つあったばかりで、これを県令車といっていたから貴族の方々や師範中学の先生達はおおかた駕籠で往復したものだ。師範中学の先生達は土曜日になると、よく集まって酒を呑んだものだが、ほろ酔加減になると、例の駕籠を用意させて那覇に下っていくのであった。その翌年すなわち明治二十年に、首里の安慶田という人が大阪から十二台ほど人力車を取寄せて、人力車営業を始めたが、この車が通ると、沿道の人民は老幼男女を問わず、門の外に飛出して見物するのであった。これからはもう師範中学の先生達の那覇下りも楽になった。私も時々高い車賃を払ってこれに乗った。車賃は確か片路で二十六銭であったと覚えている。この時から私の変ちきりんの籠はあまり見えないようになった。
この年の二月、森文部大臣が沖縄の学校を視に来られた頃は、師範学校の生徒中に、断髪した者は一人もなかった。その頃断髪したのは沖縄中に一、二名しかなかった。私は伊江朝貞君(日本キリスト教の宣教師)が師範学校の寄宿合に行って、富永先生(元の高等女学校長)に片髻を結って貰ったのを覚えている。
この結髪の師範生等が、靴をはき、鉄砲をかついで、中隊教練をやり始めたら、口さがなき京童は、「鉄砲かためて靴くまち、親の不幸やならんかや」と歌って、彼等を嘲けった。しばらくして、師範生中で桑江(元の佐敷校長)、奥平(菓子屋の主人)等五、六名のものが断髪したら、世間の人から売国奴として罵られた。ある時この連中が識名園に遊びに行くと、見物人が市をなして歩けないくらいであったということだ。ところがこれから一年も経って、二十一年の四月頃になると、師範生中には最早一人の結髪者も見えないようになった。
小学校で体操や唱歌や軍歌が始まったのもこの時だ。私は行軍の時にはいつでも「我は官軍」や「嗚呼正成よ」の音頭取をやらせられた。よほど後になって、首里の小学校では「昔唐土の朱文公」という軍歌をうたい出した。そうすると、那覇の小学校でも「一つとせ」という軍歌をやり始めた。
戸川先生は私にわざわざ那覇からつれて来たからには、一番になってくれないと困る、と言われたが、私は元来が懶ける性質なので、いつも五、六番位のところに落着いていた。そういう風に愚図愚図していたから、私はとうてい「ヤマトジフエー」なる先生の気に入る事は出来なかった。後で聞くと、先生は私の行末を悲観しておられたとのことだ。
その頃、私は出しゃばる癖があったが、某先生が修身の時間に「実の入らぬ首折れれ」という俚諺を説明して、私に諷刺をしたので、私は俄にだんまりになった。私は戸川先生の所に二年ほどいたが、先生の都合で中学の平尾先生の所に預けられた。
ある時私は本校生の真似をして、靴を買ってはいたら、あの子供は今に断髪をするだろう、といってそしられた。
この頃であったろう、学校から帰えると、私はいつも城の下に蝶々を採りにいったが、田村軍曹に蝶々二十匹位分捕されて泣いたこともあった。
私はこれから軍人が少々嫌いになった。平尾先生の所には一年位もいたが先生が先島に転任されたので、今度は家に帰って、毎日一里以上のところを通学するようになった。歳の若い私には、道が遠過ぎて、学校も自然欠席がちになった。そこで家では弟の乳母の子で私と同歳になる仁王という小僧を私に付てやったが、学校へ行くまねをして、よく八幡の寺の辺で遊んだものだ。私が名も知れない野生の花を摘んでいる間に、仁王は阿旦葉でラッパを造って吹いていた。この頃私の家にはいろいろの事件がおこった。私の身の上にも多少の変化がおこった。とにかくいろいろのことがあるのだけれども、それはそのうち都合のよい時、自分で素破抜くことにして、ここでは言わないことにする。
学校から帰えると、私はいつも城嶽の前のちっぽけな別荘にいって勉強していたが、首里にいた時分から昆虫の採集に趣味を有つようになり、昆虫のことを書いた本を愛読して、いつも蝶々ばかり追いまわしていた。城嶽の辺は私にとってはじつに思い出の多いところだ。
高等一年の時であったろう、はじめて沖縄史を教えられたが、私にはそれが何よりも面白かった。この以前平尾先生の所にいた時、西村県令(知事)の『南島紀事』を読んで、郷土についていくらか趣味を感じたことはあるが、私が今日郷土の研究に指を染めるようになったのは、専らこの人の影響ではないかと思う。ところが私はこの先生の名を忘れた。この先生が首里の人でもなく、那覇の人でもなく、田舎の人であったというだけは確かに覚えている。私はこの無名の先生に感謝せなければならぬ。
私は満五カ年の小学校生活を切り上げて明治二十四年の四月に、いよいよ中学に這入るようになった。当時の中学はもとの国学のあとにあったが、随分古風な建築物であった。一緒に這入った連中は漢那(大佐)や照屋(工学士)や当間(前区長)や真境名(笑古)などであった。これから私は那覇人中にも友達が出来るようになった。この時二年以上の生徒はおおかた断髪をしていたと覚えている。
ある日のこと、一時間目の授業が済むと、先生方が急に教場の入口に立ちふさがった。何だか形勢が不穏だと思っていると、教頭下国先生がずかずかと教壇に上って、一場の演説を試みられた。その内容はよくは覚えてはいないが、アメリカインデアンの写真を見たが、生徒はいずれも断髪をして洋服を着ている。ところが日本帝国の中学の中で、まだ結髪をしてだらしのない風をしているところがあるのは、じつに歎かわしいことだ、今日皆さんは決心して断髪をしろ、そうでなければ退校をしろ、という意味の演説であったと思う。全級の生徒は真青になった。頑固党の子供らしい者が、一、二名叩頭をして出ていった。父兄に相談して来ます、といって出ていったのもあった。しばらくすると、数名の理髪師が入口に現われた。この一刹那に、先生方と上級生は手々に鋏を持って教場に闖入し、手当り次第チョン髷を切落した。この混雑中に窓から飛んで逃げたのもいた。宮古島から来た一学生は切るのを拒んだ。何とかいう先生が無理矢理に切ろうとしたらこの男、簪を武器にして手ひどく抵抗した。あちこちですすり泣きの声も聞えた。一、二時間経つと、沖縄の中学には、一人のチョン髷も見えないようになった。翌日は識名園で祝賀会が開かれた。この時戦ごっこをやったが、先生と生徒との組打もあった。児玉校長が芋虫が蟻群に引摺られるように、二、三十名の新入生に引摺られるのもおかしかった。この時断髪した者の中で、父兄の反対にあって、退校して髪を生やしたのも二、三名いた(世間の人は彼等のことを「ゲーイ」といった、「ゲーイ」とはやがて還俗のことだ)。私の友達に阿波連という者がいたが、これがために煩悶して死んだ。彼は漢那君と同じくらいに出来た末頼もしい青年であったが。さて私の時分は、こういう悲劇のような喜劇で一段落を告げた。今から考えると、凡で夢のようである。読者諸君がこれによってわが沖縄の変遷を知ることが出来たら望外の望である。私はそのうち気が向いた時、私の青春時代の事を書いてみようと思う。(終り)