1945年3月10日深夜0時過ぎ、B29・325機が超低空で飛来し、下町を中心に焼夷弾33万発を投下した。火の壁を四角くつくり、そのなかで人が焼き殺された。春の強風による上昇気流で火炎の渦巻きができ、焼け跡では鉄柱が溶けていたので溶鉱炉に近い温度になっていたと推定される。焼夷弾は1人3発落とされたことになり10万人以上の命が失われた。
東京大空襲から64年たった3月14日の午後、春の台風のような怪しい天候のなか、「戦争体験者の証言を聞く会 東京大空襲被害と国家責任を問う」という集会が杉並産業商工会館で開催された(主催 <戦争体験者100人の声>の会)。主催者は開会のあいさつで、犠牲者の「涙雨」と表現した。
3人の方の証言と報告があったが、作家・早乙女勝元さんのお話を中心にお伝えする。お話に先立ち、まず18分のビデオ「首都炎上」(橘祐典監督 1988年)をみた。浅草で被災し父と弟を亡くした女の子、言問橋で被災し父母を亡くした男の子、横川公園のプールにつかったが3人の子どもを亡くした母親の3人の体験を、アニメで描いたものである。
●証言 早乙女勝元さん
わたしは1932年3月生まれで当時中学1年生、前年9月から勤労学徒として久保田鉄工に動員中だった。動員の初日は日の丸に神風と書いたはちまきを締めさせられた。「お前たちも1日も早く神風になれ」といわれ、14歳で男の子は少年航空兵、女の子は日赤の従軍看護婦に志願した人もいた。
わたしは体が弱かったせいもあり、敵を殺すことはないが、殺されるときはどんなに痛いだろうと考えた。工場には大勢の朝鮮人が働いていた。玉ノ井の遊郭が寮として使用されており、4列縦隊で毎朝出勤していた。日本人からすさまじいリンチを受けているのを目撃し「同胞なのに、なぜ?」と心がうずいたことを覚えている。
3月10日未明の大空襲は向島の寺島町で被災した。父にたたき起され、外が真っ赤で明るかったため、てっきり昼まで寝過したかと思った。
とても消せる火ではないとの父の判断で、鍋釜とふとん類をリヤカーに積み避難した。北北西の強風が吹き火の塊をかきわけて南のほうへ逃げた。東武亀戸線の踏切を越えたとき、鍋のふたが地面に落ちころがった。ふたを拾おうと追いかけたとき、焼夷弾が炸裂した。1発は左肩をかすめて横の電信柱に突き刺さった。焼夷弾は加速度がつき斜めに落ちてくる。もう一発は横にいた男の人の外套に着火し、その人は地面をコマのように転げ回った。枕木が燃え上がり、「カンカンカンカン」と焼夷弾がレールにぶつかる音が聞こえた。死ぬも生きるも紙一重だった。その後、水を求めて明治通りを北上した。少し目をやられていたので隅田川の死体の惨状はみなくてすんだ。
朝6時、赤茶けたザボン色の太陽が昇った。こんな日でも太陽は昇るものだと思った。
この夜、10万人の命が奪われた。その後、東京には100回の空襲、6月からは中小都市への空襲が始まり、8月には広島、長崎に原爆が投下され、8月15日の敗戦の日を迎えた。しかし平和の実感はわかなかった。
その後、平和になったという実感がわいたことが2回ある。まず8月20日灯火管制が解除され、ぐっすり眠り朝が迎えられるようになったとき、そして46年11月3日戦争放棄の9条を含む新憲法が公布されときだ。
知る、学ぶことなしに平和の力は主体的なものにはならない。「知っているなら伝えよう、知らなければ学ぼう」と声を大にして言っている。そして語り継ぐことを中心に、下町の北砂に民間募金による東京大空襲戦災資料センターを立ち上げた。いまは点にすぎないが、点から線に、さらに面にし、再び戦争や空襲のない国にしたい。
●報告 李一満(リイルマン)さん 東京朝鮮人強制連行真相調査団朝鮮側事務局長
東京大空襲で多くの朝鮮人が犠牲になったことは、在日朝鮮人の間で長らく語られてきた。しかし犠牲者数は判明せず本格的な調査に入ったのはほんの4年前の2005年12月のことだった。都の慰霊堂で遺骨調査を行い「少なくとも1万人を上回る」との見解を発表した。
2007年3月から東京大空襲朝鮮人犠牲者追悼会を始めた。第3回である今年は初めてソウルから2人の遺族を招待し、2月28日に開催した。2人は慶尚北道出身、大空襲の年1945年1月に軍属として芝浦海軍施設補給部に配属され、3月10日の空襲で死亡した。享年25と32だった。
慰霊堂納骨堂で個人名が判明している朝鮮人は49人だけだが、その中に名はなかった。あるとすれば合葬された大きい骨壺のなかだろう。2人のうち黄さんに関する厚生労働省の記録には、「48年5月遺骨送還、59年7月靖国神社合祀手続き済み」という驚くべき記録があった。遺族は「そんな連絡はなかったし、遺骨も還してもらっていない」と言う。日本政府は48年2月と5月に遺骨9000体を返還したと言い張っているが、この48年という年は、7月に大韓民国、9月に朝鮮民主主義人民共和国が成立した激動と混乱の時期である。現在、ソウルの「日帝強占下 強制動員被害真相糾明委員会」が認定した東京大空襲関係の遺族は73遺族、犠牲者の動員時期は45年1月5日が最も多く、動員先は芝浦海軍施設補給部が最大で、次が深川の石川島造船所である。
ほんの1か月前の2月にピョンヤンから「43年に、14歳のとき東京特殊鋼管砂町製鋼所に連れて行かれ、45年3月9日夜間交代作業に出たとき大空襲があり製鋼所横の運河に飛び込み命拾いした。宿舎にいた朝鮮人はほとんど焼死した」というメールが届いた。
この問題は、まだ解明が始まったばかりである。来年「東京大空襲65周年朝鮮人犠牲者追悼シンポジウム」を東京で開催する予定である。
●報告 城森 満(きもりみつる)さん 東京大空襲訴訟原告団副団長
2007年3月東京大空襲訴訟を提訴した。08年3月の第二次提訴と合わせ原告は132人に上る。証人尋問を申請すると、国は一般の証人13人はまったく必要ないと言い、早乙女さんについては必要がないだけでなく有害だとまで言った。しかし裁判所は事実審理することにし、証人尋問が実現した。5月21日に結審する予定である。
わたしたちが求めているのは国の謝罪と1人1100万円の補償、そして都に対する慰霊塔と展示館建設の要求である。横網町に仮の慰霊堂があるが、空襲は自然災害ではないのでいっしょはいやだという人がいる。一審で、しっかりしたよい判決を取りたい。
わたしは3月10日の大空襲のときは学童疎開していたが、両親と下の弟を亡くした。東京に戻ると焼け野原で都電のレールがアメのように曲がり、まだ犬の死体が道路にころがっていた。防空壕から足がもげ黒焦げの男の人を運び出すのを見た。赤い腸がゴムのように長く伸びていた。孤児として引き取られたが、食糧事情が悪い時期だったので学校にも満足に行けず苦労した。
昨年12月8日大阪でも原告18人が空襲訴訟を提訴した。また1938-41年の日本軍の重慶大爆撃に対しても、06年3月被害者40人が提訴している。初めて会ったときわたしたちは涙を流してお詫びし、加害者被害者の壁を乗り越え連帯して闘っている。また両者で国連へ持ち出そうとアプローチを始めている。
戦争は、人類史上最大の犯罪行為だ。
☆2年前の10月、北砂の東京大空襲・戦災資料センターを訪れた。焼夷弾や空襲の被災品、灯火管制下の暮らし、国民学校時代の教科書や習字、早乙女館長の著作、「東京大空襲と朝鮮人」というコーナーには朝鮮人戦時動員労務者が派遣されていた工場一覧など、資料がたくさん展示されていた。
大空襲の2か月前の1月5日に東京に連れてこられた朝鮮人が多いというのだから、焼き殺されるために来たようなものである。集会会場で購入した「東京大空襲・朝鮮人罹災の記録」(パート1 06年、パート2 07年3月 綜合企画ウイル)には悲惨な体験がたくさん掲載されている。
このセンターは2002年に民営でオープンしたが、じつは都立の平和祈念館が2001年に開館することになっていた。それを97年10月から99年9月まで執拗に都議会で攻撃し、中止に追い込んだのが土屋たかゆき都議(民主)ら三都議である。彼らは、今年3月16日七生(ななお)養護学校「ここから裁判」 で「不当な支配」をしたと認定され、都とともに210万円の支払いを東京地裁に命じられた。都議会での質問を通した「不当な支配」は、七生養護学校だけでなく、平和祈念館や東京女性財団(2000年2月2日決算特別委員会など 2001年4月廃止)、教員に日の丸を強制する10.23通達(2003年7月2日第2回定例会)にも及んだ。さらに彼らは板橋高校・藤田先生の刑事告発(2004年3月16 日予算特別委員会)、10年がかりで取った増田都子教諭の分限免職(98年9月8日文教委員会ほか多数)まで行った。
東京大空襲から64年たった3月14日の午後、春の台風のような怪しい天候のなか、「戦争体験者の証言を聞く会 東京大空襲被害と国家責任を問う」という集会が杉並産業商工会館で開催された(主催 <戦争体験者100人の声>の会)。主催者は開会のあいさつで、犠牲者の「涙雨」と表現した。
3人の方の証言と報告があったが、作家・早乙女勝元さんのお話を中心にお伝えする。お話に先立ち、まず18分のビデオ「首都炎上」(橘祐典監督 1988年)をみた。浅草で被災し父と弟を亡くした女の子、言問橋で被災し父母を亡くした男の子、横川公園のプールにつかったが3人の子どもを亡くした母親の3人の体験を、アニメで描いたものである。
●証言 早乙女勝元さん
わたしは1932年3月生まれで当時中学1年生、前年9月から勤労学徒として久保田鉄工に動員中だった。動員の初日は日の丸に神風と書いたはちまきを締めさせられた。「お前たちも1日も早く神風になれ」といわれ、14歳で男の子は少年航空兵、女の子は日赤の従軍看護婦に志願した人もいた。
わたしは体が弱かったせいもあり、敵を殺すことはないが、殺されるときはどんなに痛いだろうと考えた。工場には大勢の朝鮮人が働いていた。玉ノ井の遊郭が寮として使用されており、4列縦隊で毎朝出勤していた。日本人からすさまじいリンチを受けているのを目撃し「同胞なのに、なぜ?」と心がうずいたことを覚えている。
3月10日未明の大空襲は向島の寺島町で被災した。父にたたき起され、外が真っ赤で明るかったため、てっきり昼まで寝過したかと思った。
とても消せる火ではないとの父の判断で、鍋釜とふとん類をリヤカーに積み避難した。北北西の強風が吹き火の塊をかきわけて南のほうへ逃げた。東武亀戸線の踏切を越えたとき、鍋のふたが地面に落ちころがった。ふたを拾おうと追いかけたとき、焼夷弾が炸裂した。1発は左肩をかすめて横の電信柱に突き刺さった。焼夷弾は加速度がつき斜めに落ちてくる。もう一発は横にいた男の人の外套に着火し、その人は地面をコマのように転げ回った。枕木が燃え上がり、「カンカンカンカン」と焼夷弾がレールにぶつかる音が聞こえた。死ぬも生きるも紙一重だった。その後、水を求めて明治通りを北上した。少し目をやられていたので隅田川の死体の惨状はみなくてすんだ。
朝6時、赤茶けたザボン色の太陽が昇った。こんな日でも太陽は昇るものだと思った。
この夜、10万人の命が奪われた。その後、東京には100回の空襲、6月からは中小都市への空襲が始まり、8月には広島、長崎に原爆が投下され、8月15日の敗戦の日を迎えた。しかし平和の実感はわかなかった。
その後、平和になったという実感がわいたことが2回ある。まず8月20日灯火管制が解除され、ぐっすり眠り朝が迎えられるようになったとき、そして46年11月3日戦争放棄の9条を含む新憲法が公布されときだ。
知る、学ぶことなしに平和の力は主体的なものにはならない。「知っているなら伝えよう、知らなければ学ぼう」と声を大にして言っている。そして語り継ぐことを中心に、下町の北砂に民間募金による東京大空襲戦災資料センターを立ち上げた。いまは点にすぎないが、点から線に、さらに面にし、再び戦争や空襲のない国にしたい。
●報告 李一満(リイルマン)さん 東京朝鮮人強制連行真相調査団朝鮮側事務局長
東京大空襲で多くの朝鮮人が犠牲になったことは、在日朝鮮人の間で長らく語られてきた。しかし犠牲者数は判明せず本格的な調査に入ったのはほんの4年前の2005年12月のことだった。都の慰霊堂で遺骨調査を行い「少なくとも1万人を上回る」との見解を発表した。
2007年3月から東京大空襲朝鮮人犠牲者追悼会を始めた。第3回である今年は初めてソウルから2人の遺族を招待し、2月28日に開催した。2人は慶尚北道出身、大空襲の年1945年1月に軍属として芝浦海軍施設補給部に配属され、3月10日の空襲で死亡した。享年25と32だった。
慰霊堂納骨堂で個人名が判明している朝鮮人は49人だけだが、その中に名はなかった。あるとすれば合葬された大きい骨壺のなかだろう。2人のうち黄さんに関する厚生労働省の記録には、「48年5月遺骨送還、59年7月靖国神社合祀手続き済み」という驚くべき記録があった。遺族は「そんな連絡はなかったし、遺骨も還してもらっていない」と言う。日本政府は48年2月と5月に遺骨9000体を返還したと言い張っているが、この48年という年は、7月に大韓民国、9月に朝鮮民主主義人民共和国が成立した激動と混乱の時期である。現在、ソウルの「日帝強占下 強制動員被害真相糾明委員会」が認定した東京大空襲関係の遺族は73遺族、犠牲者の動員時期は45年1月5日が最も多く、動員先は芝浦海軍施設補給部が最大で、次が深川の石川島造船所である。
ほんの1か月前の2月にピョンヤンから「43年に、14歳のとき東京特殊鋼管砂町製鋼所に連れて行かれ、45年3月9日夜間交代作業に出たとき大空襲があり製鋼所横の運河に飛び込み命拾いした。宿舎にいた朝鮮人はほとんど焼死した」というメールが届いた。
この問題は、まだ解明が始まったばかりである。来年「東京大空襲65周年朝鮮人犠牲者追悼シンポジウム」を東京で開催する予定である。
●報告 城森 満(きもりみつる)さん 東京大空襲訴訟原告団副団長
2007年3月東京大空襲訴訟を提訴した。08年3月の第二次提訴と合わせ原告は132人に上る。証人尋問を申請すると、国は一般の証人13人はまったく必要ないと言い、早乙女さんについては必要がないだけでなく有害だとまで言った。しかし裁判所は事実審理することにし、証人尋問が実現した。5月21日に結審する予定である。
わたしたちが求めているのは国の謝罪と1人1100万円の補償、そして都に対する慰霊塔と展示館建設の要求である。横網町に仮の慰霊堂があるが、空襲は自然災害ではないのでいっしょはいやだという人がいる。一審で、しっかりしたよい判決を取りたい。
わたしは3月10日の大空襲のときは学童疎開していたが、両親と下の弟を亡くした。東京に戻ると焼け野原で都電のレールがアメのように曲がり、まだ犬の死体が道路にころがっていた。防空壕から足がもげ黒焦げの男の人を運び出すのを見た。赤い腸がゴムのように長く伸びていた。孤児として引き取られたが、食糧事情が悪い時期だったので学校にも満足に行けず苦労した。
昨年12月8日大阪でも原告18人が空襲訴訟を提訴した。また1938-41年の日本軍の重慶大爆撃に対しても、06年3月被害者40人が提訴している。初めて会ったときわたしたちは涙を流してお詫びし、加害者被害者の壁を乗り越え連帯して闘っている。また両者で国連へ持ち出そうとアプローチを始めている。
戦争は、人類史上最大の犯罪行為だ。
☆2年前の10月、北砂の東京大空襲・戦災資料センターを訪れた。焼夷弾や空襲の被災品、灯火管制下の暮らし、国民学校時代の教科書や習字、早乙女館長の著作、「東京大空襲と朝鮮人」というコーナーには朝鮮人戦時動員労務者が派遣されていた工場一覧など、資料がたくさん展示されていた。
大空襲の2か月前の1月5日に東京に連れてこられた朝鮮人が多いというのだから、焼き殺されるために来たようなものである。集会会場で購入した「東京大空襲・朝鮮人罹災の記録」(パート1 06年、パート2 07年3月 綜合企画ウイル)には悲惨な体験がたくさん掲載されている。
このセンターは2002年に民営でオープンしたが、じつは都立の平和祈念館が2001年に開館することになっていた。それを97年10月から99年9月まで執拗に都議会で攻撃し、中止に追い込んだのが土屋たかゆき都議(民主)ら三都議である。彼らは、今年3月16日七生(ななお)養護学校「ここから裁判」 で「不当な支配」をしたと認定され、都とともに210万円の支払いを東京地裁に命じられた。都議会での質問を通した「不当な支配」は、七生養護学校だけでなく、平和祈念館や東京女性財団(2000年2月2日決算特別委員会など 2001年4月廃止)、教員に日の丸を強制する10.23通達(2003年7月2日第2回定例会)にも及んだ。さらに彼らは板橋高校・藤田先生の刑事告発(2004年3月16 日予算特別委員会)、10年がかりで取った増田都子教諭の分限免職(98年9月8日文教委員会ほか多数)まで行った。