毎年この時期恒例の「まるごとミュージアム」、今年は、築地の松竹大谷図書館、セイコーミュージアム銀座、月島図書館の「まるっと佃」の3つを訪れた。
服部時計店創業期の展示コーナー
セイコーミュージアム銀座は、和光のビル内のどこかにあるのだろうと思ったら、150mほど離れたセイコー並木通りビルという、地下1階、地上6階のペンシルビル全体がミュージアムになっていた。
セイコーというと錦糸町に大きな工場があったので、中央区に本社があってももともとは墨田区の精密機械会社から始まったのだろうと思っていたら、じつは創業者・服部金太郎は1860年京橋采女町(現在の東銀座 銀座5丁目あたり)に生まれ、時計店での年季奉公を経て17歳で服部時計修繕所の看板をあげたのは自宅、1887年銀座4丁目の表通りに出店したということなので、発祥の地は銀座だったようだ。当初は外国製品を仕入れ販売していた。しかし高級時計製造、上海をはじめとする海外進出、学術奨励援助・公益事業援助の服部奉公会創設を、大正・昭和初期になしとげたというので、経営者としての才覚が抜群の人物だったようだ。渋沢栄一や矢野恒太(第一生命創業者)とも親交が厚かった。
これは2階の「常に時代の一歩先を行く」という歴史の部屋の説明だ。その他のフロアでは、歴史的価値のある時計、正確な時計など高級な時計など多彩な展示構成になっている。数時間かけて見るべき博物館なので、別の機会に詳細を紹介したい。
松竹大谷図書館は、銀座松竹スクエアというオフィスビルの3階にある。比較的新しいビルだが、この場所には2000年まで松竹会館という映画館があり、現在のシネコンのように4館もある大型映画館だったそうだ。向かいが東劇、東に200m行けば歌舞伎座なので、まるで有楽町の東宝村のような地区だったようだ。
この図書館は65年前の1958年7月、創業者・大谷兄弟(双子)の弟のほう・大谷竹次郎が文化勲章受章を記念して、松竹会館のなかで開館した図書館だ。
すべて閉架なので、どのくらいの資料・書籍があるのかわからないが(総数50万点あまり)、映画のパンフレット、ポスター、シナリオやスチールもたくさんある。
壁際に、昔なつかしい引出し式のカード目録がずらりと並んでいて驚いた。日本十進分類の774歌舞伎,775各種の演劇,778映画がばかに多く、内訳の木箱の数も多かった。さすがに2003年以降の登録資料は電子データになっていた。ただ残念なことに館内に1台のデスクトップパソコンでしか検索できない。
イベントなので、特別に20冊ほど映画パンフレットが展示されていた。「砂の器」「八つ墓村」「男はつらいよ特別編」「こんにちは母さん」といったいかにも松竹映画のほか、「スティング」「E.T」など洋画の配給、「魔女の宅急便」、さらにシネマ歌舞伎「桜姫東文章」「一谷嫩軍記 熊谷陣屋」「女殺油地獄」などが並んでいた。これはたしかに松竹以外でばつくれない。
なお資料は、松竹だけでなく他社や外国のものもあるようだ。早稲田の演劇博物館、国立映画アーカイブ図書室のほか、企業のこういう専門図書館があることを知った。
月島図書館「まるっと佃」は、「佃島」と命名されて380年ということで佃に焦点を当てた展示だった。佃と白魚の歴史、石川島の歴史、佃大橋の架橋、住吉神社の大祭の4ブロックから成る。
わたしは佃と石川島の歴史に関心があるので、その部分を中心に紹介する。
佃島が、大阪の佃村と大和田村(現在の西淀川区佃)の漁師を家康が連れ帰って住まわせたことから始まるという話は有名だ。
漁民たちは、1582(天正10)年の本能寺の変で家康が「伊賀越え」で江戸に戻ったとき水運で助け、さらに大阪夏の陣、冬の陣で肴の用意や密偵のようなことをして家康陣営に加勢した(ただし諸説あると書かれていた)。
だが初めから佃島に住んでいたわけでないことを初めて知った。まず日本橋小網町の安藤対馬守の屋敷に居住させ、白魚漁をさせ献上させたり、江戸城の食事に利用する魚を準備させた。1613(慶長18)年には幕府から漁業の許可(お墨付き)を与えられた記録がある。だが白魚が採れる冬から春に(大阪から)やってくる旅の者に過ぎず江戸近隣の漁師の反発は絶えなかった。
そこで石川島の南側の干潟のある場所に土地を拝領することを願い出、この場所を佃島と名付けたのが1644(正保元)年だった。
また白魚を扱う白魚役はもともと小網町の漁民の特権だったので、隅田川を主体に漁をしていた。だから佃の漁民は中川や利根川で漁をし、後年になってやっと隅田川の10kmも上流の千住大橋から北区豊島町での漁がで認められるようになった。
しかし明治維新で白魚漁の権利が消滅し、政府に要望を出した結果1879年に5年契約で漁ができることになった。しかし1889年以降は更新されなくなった。一方白魚の漁獲量自体が減少したため、大正に入ると海苔の養殖や魚市場の問屋に働きに出るようになっていった。
佃の名物・佃煮は、白魚漁以外の季節には沖に出る漁師や陸の家族の保存食としてつくられた。具材は大量に取れ売り物にならない雑魚(ざこ、特にハゼ)を利用した。やがて住吉神社に参詣する人への酒の肴として提供し、みやげものとして販売することになった。いまも3-4軒、古い店がある。
現在も営業中の2軒、通りを隔てた奥にもう1軒ある
一方、石川島は隅田川の浅瀬の寄り州(よりす 半陸地)だった。1626(寛永3)年ころから石川八左衛門の1万6790坪の屋敷地だったが1792(寛政4)年永田町に移転した。そこで「鬼平犯科帳」(池波正太郎)で有名な火付盗賊改め長谷川平蔵が、無宿人の新たな施設人足寄場という施設を提案しをこの場所につくることを提案した。
無宿人とは、飢饉・凶作などが原因の貧困、農村を離脱、刃傷沙汰・失火などで、戸籍(人別帳)をなくした者のことだ。それまでも佐渡の水替人足にする島流しや木場の養育所に送る施策があったが、労働が厳しすぎたりうまくいかず養育所は1780年から7年で閉鎖された。
そこで長谷川は、江戸で2万坪の土地を探し、最後に石川島と佃島の間の葦の沼地を埋立て新しい施設をつくった。1790(寛政2)年に設置され、その後、石川の屋敷跡も加わった。刑罰だけでなく更生も目的としたので、大工・塗師など技術系の職、炭団(たどん)焼き・紙漉き・油絞りなどの人夫、その他寄場外で行う水運搬、材木運搬などの仕事があった。これを江戸市中で販売し、約2割の経費を差し引いたもうけを分配した。その他煙草銭というやる気を出させる小遣いや褒美銭という制度があった。
休日は、毎月1、15、28日の3回と盆暮れ、五節句だった。収容者は当初130人程度、幕末には400-500人に増えた。
明治維新を迎え、1895(明治28)年巣鴨に移転し、関東大震災後の1935年府中へ移転した。
住吉神社、バックにタワーマンションがみえる
佃大橋や祭りは多くの写真や提灯などが展示され、佃に長く住み祭りにも携わった中澤さんという方のコメントがついていた。たとえば佃小橋のそばに交番のある写真には「この建物がそうです。いまの西仲通商店街にあるあの交番と同じつくりだったんですよ」とか、提灯の「津久田」は佃の当て字だが「提灯に一文字だと格好がつかないからね」という吹き出しが付いていて、よくわかった。
☆まるごとミュージアムのイベントではないが、たまたま時期を同じくして、2つのコンサートを聞いた。
まず11月9日(土)の午後、朝日ホールで銀座並木通り合唱団のコンサート2024。演奏曲は「筑後川」(團伊玖磨・作曲)、「落葉松」(小林秀雄・作曲)、「YUME」(三沢治美・編曲)など15分の休憩も入れて2時間のコンサートだった。三沢治美さんも来場されていた。若い方にみえたが、どうして昭和の曲に関心を抱かれたのかと思った。
安達陽一さんの指揮は、4声、男声・女性、合唱とピアノそれぞれのバランスがとてもよかった。
また10日(日)午後、晴海の第一生命ホールで中央区交響楽団の2024冬のコンサート。プログラムは「ケンディード序曲」(バーンスタイン)、「パリのアメリカ人」(ガーシュイン)、「交響曲第9番新世界より」(ドヴォルザーク)の3曲、20分の休憩を入れて2時間弱のコンサートだった。こちらは前から3列目、左手とあまりよい場所ではなかったがスティーブン孝之シャレットさんの明確な指揮がよく見える席だった。
●アンダーラインの語句にはリンクを貼ってあります。