2015年に長野―金沢間が開通した北陸新幹線が今年3月16日、福井県敦賀まで延伸した。そこで敦賀にいってみた。
北陸・敦賀は古来より海外との交易の地だった。大河ドラマ「光る君へ」の宋人・周明(松下洸平)らは松原客館でもてなされた。大正以降、ウラジオストク経由のパリ、ベルリン、ロンドンなどヨーロッパへの窓となった。
港の近くに赤レンガ倉庫(国登録有形文化財 1905年建設の石油貯蔵用倉庫)がある。2棟のうち1棟はジオラマ館として活用されている。1945年ころの敦賀の街並みを全長27m、奥行き7.5m、1/80スケールのジオラマにしたものだ。D51などのSL、ディーゼル、船や自動車、バスなどが走り回っている。
金ヶ崎駅(その後の敦賀港駅)は福井県内最古の駅(1882年開業 2019年敦賀港線廃線に伴い廃駅)、かつ日本海側で最初に機関車が走った地だそうだ。ロシアとの交易では、1906年ロシアの東亜汽船が敦賀―ウラジオストク航路を週1便で定期運航開始、1912年6月新橋―金ヶ崎の鉄道と連絡し東亜国際連絡列車の運転開始、週3回運航した。おかげでそれまでスエズ運河経由で約40日かかった東京―パリが17日に短縮された。
こうしたストーリーを裏付ける施設があった。まず2008年オープン(2020年リニューアル)の敦賀ムゼウム。敦賀には2度ポーランドから避難者がやってきた。1度目は1920年代、ロシア革命後、内戦状態のシベリアで家族を亡くし貧困に窮したポーランド人孤児を救う運動がウラジオストクで始まった。日本政府が日本赤十字に要請し、1920年から22年に763人の孤児たちがウラジオストクから敦賀に来航した。そして東京と大阪の施設で養育され、母国ポーランドに戻ることができた。
2度目は、ナチスの迫害で亡命したポーランド人の来航だ。1940年7月リトアニアのカウナス領事館の杉原千畝が発給した2139枚の「命のビザ」のおかげで、シベリア鉄道経由で多くのユダヤ人がウラジオストクから敦賀、下関、神戸などに渡った。多くは敦賀から神戸に一時滞在の後、アメリカや上海に渡った。上海に行ったユダヤ人は戦後、アメリカ、カナダ、オーストラリアなどの定住地に旅立った。
敦賀では、身辺の世話は赤十字のスタッフが担ったので、一般市民との交流はなかったが「子どものころ駅でみかけた」といった体験談がたくさん掲示されていた。
緒方貞子の肖像とメッセージ「100年後のみなさんへ」より 「(略)日本も様々な形で、いい考え方、いい試み、多様な幸せの在り方を打ち出して、他を引っ張っていける立派な人々と、国であってほしいと思っております」(2013年の著書「共に生きるということ」PHP研究所)
ムゼウムでは企画展「緒方貞子展」を開催中だった。国連難民高等弁務官としての活躍は知っていたが、それ以外のことはほとんど知らなかった。緒方貞子は、犬養毅の曾孫、元フィンランド公司の娘として1927年東京で生まれ、幼少期をサンフランシスコ、広東省、香港などで過ごし、小学生のとき帰国して聖心女子学院に転入、聖心女子大卒業後、アメリカの大学で政治学博士号を取得、ICUや上智大学で教鞭をとった。68年ころから国連に関与し、国連公使に就いた。そして1991年難民高等弁務官に就きクルド難民、ユーゴ紛争、ルワンダ難民支援などに10年携わった。クルド難民など、現在も引き続いている問題にも関与していた。その後JICA理事長を9年務め、2019年92歳で亡くなった。あらためて「現場主義」を方針とする偉大な国際平和・国際交流の人物であったことを再認識した。
ムゼウムは赤レンガ倉庫から北西に300mほどのところにあるが、逆に赤レンガから南西200mのところに敦賀鉄道資料館がある。この建物は1999年鉄道桟橋にあった旧敦賀港駅を復元してつくられ、2009年に資料館としてオープンした。2階建てのそう広くはないスペースに、写真、鉄道模型、SL部品、切符・時刻表など、(わたしには貴重さがわからないが)鉄道ファンにはたまらない展示品が多数展示されていた。マニアらしい客がじっくりながめていた。この施設は、基本的に市民ボランティアで成立しているようで、たとえば近くの観光スポットへの行き方など、男女のスタッフに親切に教えていただいた。
赤レンガ倉庫のジオラマの解説は姉弟の会話でつくられていた。それが完全に関西弁だったので驚いた。敦賀(福井県)は旧国鉄時代、大阪鉄道管理局か新潟鉄道管理局かどちらかの管轄だったのではないか、と想像しわからなかったので、聞いてみた。そこまではわからないが、福井県は嶺南と嶺北という地域区分があり、嶺南は関西の圏内なので大阪とのつながりが強い、ということを教えていただいた。なお鉄管については、どうも金沢鉄道管理局の管内だったようだ。
このあと、レンタサイクルで気比(けひ)の松原に向かった。地図では遠いように見えたが漁港や古い倉庫を抜け30分ほどで到着した。気比の松原は、佐賀県の「虹の松原」、静岡県の「三保の松原」とともに日本三大松原と称され、規模は1㎞、34万平方m、1928年に国の名勝に指定され、保存状況もよく、たしかに見事だった。磯釣りしていた人の姿がのどかだった。
松原は敦賀湾の奥まったところにあるが、出口に近いところに水島という小島があり1689年8月、松尾芭蕉が小舟で渡り「寂しさや須磨にかちたる浜の秋」「波の間や小貝にまじる萩の塵」という句を詠んだ、と地元の方にお聞きした。
美しい松と浜だが、岬に近いところに日本原電の敦賀原発がある。1970年に稼働した古い原発で、日本最古の商用炉の1号機は廃炉決定、2号機も活断層の存在を否定できず運転再開不許可が決まりつつある。
元は銀行なのでカウンターがあり、カウンターの内側から客側をながめる珍しい体験ができる
港の近く、もう少し町の中心の方向に敦賀市立博物館がある。ここは実業家・二代目大和田荘七が創業した大和田銀行本店で、1927年建設の建物そのものが貴重で2012年国の重要文化財に指定された。銀行としては、三和銀行を経て福井銀行の支店になったが、1978年に市に寄贈された。
2つ新しいことを知った。1929年北日本汽船は敦賀と朝鮮半島北部の清津を結ぶ航路を開設した。「日満連絡の新しき近路」という地図の日本海の部分に「日本海を我等の湖水に致しませう」というキャッチフレーズが書かれていた。昭和初期の植民地主義を明確にするキャッチだ。
高速増殖炉「もんじゅ」の旗やテレフォンカードが展示されていた。動燃(動力炉・核燃料開発事業団)は1983年高速増殖炉の設置許可を受け取った。高速増殖炉は核燃サイクルの一環の施設で商用炉ではなく研究用原子炉で立石岬より西にに2㎞の場所にある。だが91年の運転開始後ナトリウム漏洩と火災事故(1995年12月)や点検漏れが相次ぎ、2016年廃炉と決定した。
敦賀は、この記事で触れたようにもともとは京の都に比較的近い地なので、交易の要所として発展してきた。ジオラマでみたが、産業では東洋紡の工場の存在がかつては大きかったようだ。東洋紡敦賀工場は1934年創業、レーヨンの製造工場だった。戦後はPPフィルム、ナイロンも手掛け、バイオの研究拠点にもなった。敷地面積が72万平方メートルもあり、町名も東洋町だ。戦後は敦賀原発、もんじゅでわかるよう原発の町になったようだ。ただこれは敦賀に限らず、福井県には関西電力の原発が美浜、大飯、高浜の3か所に合計10基(うち4基は廃炉決定済み)も立地し、高浜町助役からの金品受領の不祥事も発覚した県だ。
市中には敦賀街道というメインストリートがあり、道路の両側に2キロくらい続くつるがアーケードという立派な商店街がある。しかしわたしが訪れたのが土日だったからか、多くの店がシャッターを下ろしていた。他の地方都市同様、不況のようだ。
こうなると、原点に戻り観光による町おこしがよいのかもしれない。
たとえば市立博物館から50mくらいのところに晴明神社があった。安倍晴明(921-1005)は陰陽道(おんみょうどう)の大家でドラマ「光る君へ」でも宮中や政治の行方を占う重要人物として登場した。10世紀末に晴明自身が敦賀に滞在し天文学・地文学の研究を行ったことになっているそうだ。鳥居脇に六角形の☆印の旗が立っていた。ここもやりようによっては観光スポットになりうる。
また開港100年の1999年に「宇宙戦艦ヤマト」のモニュメント12,「銀河鉄道999」のモニュメント16を設置したが、これもそういう考えだからかしれない。わたしは駅近くにある一升瓶をかかえたメガネの医師・佐渡酒造が好きだ。
☆敦賀でまごころという居酒屋に入った。土地勘がない旅先では、ガイドブックなどで当たりをつけるが、わたしは「居酒屋礼賛」(浜田さん)、酒場放浪記(吉田類さん)、居酒屋味酒覧(太田和彦さん)の情報を信頼してみている。この店は吉田さんの検索結果だ。
食べログでは18時オープンになっていたので、18時過ぎにいくと、まだオープンしていない。マスターにお聞きすると18時半からたとのことで出直した。18時40分ころ行くと、ほぼ満席、1つだけ空いていた席に着く。マスターは注文された料理つくりでてんてこ舞いだったので、左右の方とお話した。驚くことに入口から4人はすべて旅行者で、類さんの情報で来訪したようだった。「類は友を呼ぶ」というか、話がはずんだ。壁には酒場放浪記の写真が掲示されていた。ただ何人か入店できず帰られた客がいた。旅行者があまり多すぎるのはこの規模の店では気の毒だったかもしれない。
わたしが頼んだのは、へしこの刺身、おでんの大根と糸こんにゃく、締めのおにぎり、飲み物は日本酒、黒霧島お湯割り、チューハイだった。この店は1年中おでんをやっているようだった。
1時間半ほどの滞在だったが、残念ながらマスターは忙しそうだったので、お話できなかった。
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