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集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

越前は歴史の国

2024年10月30日 | 

福井に旅をしたのは、敦賀編で書いた北陸新幹線の福井延伸もあるが、今年の大河ドラマ「光る君へ」で6月ころ舞台が福井だったことがある。
越前市は、奈良時代に国府が置かれ国司がいた町だ。越前市といってもわたしにはピンとこない。越前だから、もちろん福井県のなかのどこかだとは理解できるが、2005年に武生市と今立町が合併してできた。福井市の南が鯖江、その南に位置する。武生といわれればすぐわかるのだが・・・。

「光る君へ」で紫式部の父・為時が越前守に任官したため、26歳の式部が父に伴い越前に住み、宋人と親しくする。しかし父のいとこの息子・宣孝と結婚し1年半ほどで都に戻る
ドラマの中ではなかなか重要な土地だったが、なにしろ1000年以上前の平安時代の、しかも福井の話なので、国司の館がどこにあったのかもはっきりしない。観光コースであるNHKの大河ドラマ館、紫式部公園と隣接する「紫ゆかりの館」を訪れたが、これというものはなかった。強いていえば公園内の高さ3mもある紫式部像(圓鍔勝三製作)が記念写真にはなる。

お市の方(左)と三姉妹の像
また大河に戦国時代がたびたび描かれ、信長や秀吉が活躍した朝倉義景浅井長政軍攻略(1573)と10年後の1583年に柴田勝家とともに北ノ庄城で自害した信長の妹・お市の生涯やその三姉妹(茶々)がしばしば登場する。市は信長の妹で浅井長政の後妻だったが夫の死後、清須会議柴田勝家の正室となる。賤ヶ岳の戦いで柴田が秀吉に破れた後、北ノ庄城で夫とともに37歳で自害した。茶々(淀殿)は豊臣秀吉側室で秀頼の母、初は京極高次正室で夫の死後出家したが、豊臣家と家康の対立のなか、豊臣方の使者を務めた。江は徳川秀忠の継室となり、三代将軍家光など2男5女をもうけた。3人とも戦国ならではの数奇な運命を送った。
北の庄という名前は知っていたが、いったいどこなのかは知らなかった。まさに福井市の町のなかの駅から南西400mのところに柴田神社と北の庄城址がある。小さなところで本能寺と変わらない。とても武将の城址とは思えないが、城の一部ということなのかもしれない。
勝家のどっしりした像のほか、市と三姉妹の像があった。戦国の歴史ファンは、駅直近ということもあるので行く価値があるかもしれない。なお勝家・市の墓所もここから約1キロ西の西光寺にあるそうだ。

ちひろ母子と、書架にあるのはちひろの作品の絵本
武生では、紫式部公園から駅に向かう途中で「ちひろの生まれた家」記念館に立ち寄った。
10年も前だが、練馬のちひろ美術館・東京に行ったことがあるが、ちひろは松本の人という印象が強く、なぜ福井生まれなのかと驚いた。
ちひろの母・文江さんもドラマのような人生を送られた方のようだ。
松本の女学校卒業後、奈良の高等女子師範の1期生として入学。理科・家事・園芸の免許を取得し福井県武生の実科女学校の校長に乞われ、1913年卒業後創立教員として就職、3年目から冬は30人ほどの寄宿舎の舎監も引き受けた。1918年春、建築技師と婿養子のかたちで結婚したが、夫が軍属としてシベリア勤務になったこともあり、そのまま武生で単身赴任の教員を続けた。出産に備え市内の商家に下宿し、臨月の18年12月まで働き、雪の降る15日にちひろを生んだ。いまとは違い産前産後の数週間しか休まず、現場に復帰した。だが夫が帰国したこともあり3月に武生を去り上京した。
ちひろは武生には生後3か月ほどしかいなかったので、記憶にはないだろう。ただ創立30周年のとき母とともに武生を訪れた集合写真が掲示されていた。トピックだが、年譜に「知弘」という名前があった。あれ、兄でもいたのかと思ったら、ちひろの本名は「知弘」なのである。「いわさきちひろ」というかなの名前しか知らなかった。きっとなにか謂われがあるのだろう。
この家の家主は古着商や質店を営んでいた。間口が狭いが奥行きがずいぶん深い家だった。記念館は通りから路地を40mほど入ったところにある。その通りというのがなんと旧北陸道で交差点付近には、古い商店が並んでいた。おそらく町の中心部だったのだろう。

わたしの旅のテーマのひとつに「男はつらいよ」のロケ地巡りがある。福井県は吉永小百合がマドンナ(役名・歌子)の第9作「柴又慕情(1972年8月)の舞台となった。歌子の短大時代の同級生、みどり(高橋基子)、マリ(泉洋子)の3人娘が金沢宿泊のあと、東尋坊や永平寺を巡る。3人が永平寺を参拝したあと廃線跡のレールを歩くシーンや、永平寺口駅での寅との別れが印象に残っている。
永平寺前の門前町は、わたしにはこれといった特徴のない観光商店街にみえた。ただ全国から僧侶が修行に来るようで、僧服でみやげものをたくさん購入している光景が珍しかった。
永平寺には福井市から直行バスで行ったが、帰りはえちぜん鉄道永平寺口駅経由で戻った。この駅は1914年京都電燈越前電気鉄道永平寺駅として開業(27年永平寺口駅に駅名変更)、1944年京福電鉄に合併されたとき東古市駅に改称し、2002年に東古市―永平寺が廃線になったあと03年えちぜん鉄道に事業譲渡され、駅名が元の永平寺口駅に戻った。電車を待つ間に駅舎周辺を歩いてみた。するとホームの向かい側右手にもうひとつ駅舎があり、そちらに回り込むと「男はつらいよロケ地」の石碑が立ち、扉の左側に映画ポスターがあった。旧駅舎は現在は地域交流館として活用され、地域サークル「うららサロン」の作品や「えきなかカフェ」のポスターが掲示されていた。
その一角に福井新聞の「ふくいシネマ散歩」というシリーズの「柴又慕情」の記事が掲示されていた。取材を受けた山田監督は「当時、若い女性が数人で日本の古い町を巡って歩く旅がはやり始めた。アンノン族の時代だった」と時代背景を説明し「シリーズの中でも若々しくて、弾むような躍動感あふれる作品になったと思っています」と語る。吉永は公開年に27歳、ちょうど役柄と同じくらいの若さで、美しかった。
映画では、結婚前最後の楽しい北陸旅行はイントロに過ぎず、そのあとの歌子の結婚を巡る作家の父(宮口精二)との確執と解決がテーマの映画で、寅の歌子への一方的な片思いの描き方も徹底していた。また初代おいちゃん・森川信が亡くなり、松村達雄が引き継いだ1作目で、13作から最後まで3代目下條正巳が演じた過渡期でもあった。
なお、瓦葺の和と窓や扉回りの洋が調和した旧駅舎自体が貴重で、2011年に国の登録有形文化財に指定された。
また、小さな駅でホームに短い階段を上がる点で、かつての柴又駅と雰囲気が似ていると思った。駅での別れのシーンがあったせいかもしれない。

武生駅に入ってきたハピラインふくいの車両
駅といえば、永平寺口駅はえちぜん鉄道だが、調べると福井県内はもともと私鉄が主流の地域のようだった。
県内最古は1882(明治15)年金ヶ崎(その後の敦賀港駅)―長浜の部分開通(全通は1896年)だが、私鉄は1914(大正3)年に越前電気鉄道の新福井―市荒川(現在の越前竹原)間が開業したのが始まりで、同年勝山を経て大野まで全通した。県内初の電気鉄道だった。
その後1928(昭和3)年西福井―芦原、東鯖江―織田、29年年芦原―三国、永平寺門前―金津など次々に新路線が開通した。会社も多く存在していたが、戦時中の企業統合で福井鉄道と京福電鉄の2社に集約された。しかし昭和40年代以降、モータリゼーションに抗えず、他の地域同様、1969年永平寺線・金津―東古市、73年鯖浦線など廃線が相次いだ。
現在は、えちぜん鉄道とハピラインふくいになっている。
このハピラインふくいは、驚いたことに旧北陸本線の敦賀から石川県のの大聖寺まで84㎞の路線を引き継ぐ私鉄だ。だから東京ではこの区間の切符は買えない。かつての北陸本線だからJRだろうと思いこみ、往復割引が使えると思ったのだが、残念ながらそうではなかった。

●アンダーラインの語句にはリンクを貼ってあります。

 


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