2022年12月30日
早朝、母から「お父さん駄目みたい」と電話があった。
今日は朝早くから実家に行こうと早起きをしていたので、急いで実家へ向かった。
実家にはちょうど訪問看護士の方が来ていた。
父は天国へ行ってしまったようだが、幸いだったのは看護士さんがいる時に旅立ったことだ。
母一人ではパニックになってしまったかもしれないし、かなり安らかな旅立ちだったようなので、気付かなかったかもしれない。
看護士さんが来たので、お正月の買い物をしようと市場に出かけてきてもいいですか?
と声をかけてコートを着ようとしてきたら
看護士さんが「あれ??」と言って息が止まったのに気付いたようだ。
本当に眠るように旅立ってしまったようだ。
母一人だったら、心細かったと思うので、本当に最後まで母のことを思いやってくれた父であった。
おかげで色々なことを看護士がやってくれて、訪問医療の主治医の先生にも連絡をしてくれた。
その後、主治医の先生も来てくれて色々と手続きをしてくれた。
困ったのは、年末なので火葬場もやっていない上に、年明けも大混雑らしい。
葬儀屋さんが来たのも、夜の19時を回っていた。
最上級の火葬炉であれば、1月5日と言われた。
普通の火葬炉なら1/11まで空いてないと。。。
さすがに2週間近くはまずいだろうと言うことで、1/4に通夜、1/5に告別式をすることにした。
コロナで家族葬が多いので家族葬にしたが、父の人徳か、多くのお花が届いたし、弔問も葬儀屋さんに「家族葬ですよね??」と言われてしまうほど、多くの方が訪れた。
写真はその年の正月にお台場の日航ホテルで家族で撮ってもらったのを選んだ。
8月に検査で入院してコロナに院内感染しなければもう少し元気でいれたかもと思うと残念だ。
6月には自力で歩いて電車に乗って鬼怒川まで親族旅行に行き、食事も全部たいらげたほど元気だっのだ。
でも、コロナになりガタガタと体力も落ちてしまい、抗がん剤治療も出来なくなってしまったら、抗がん剤治療をしなければ半年と言われていた通り半年で逝ってしまった。
意外に余命宣告って合っているのかも。。。
家族としては、痛い痛いと言われることもなく、安らかに旅立ってくれたのが救いである。
確か、前の晩には夢虚ろなのか??
東京音頭や炭鉱節を口ずさんでいた。。
コロナでければ入院中もお世話できたので、こんなに悪化することもなかっただろう。。
不思議なのは、人間、亡くなる前は食事をとりたがらなくなる。
食べたくないといい始めて1ヶ月くらいで亡くなってしまった。
父の後を追うように伯母も亡くなったのだが、やはり1ヶ月くらい前から、食べたくないといい始めたようだ。
不思議だ。。
父が癌と分かり余命半年と言われたが、本当に元気に3年を過ごした。
主治医も奇跡だというほど元気だったし、癌も大きくならずキープしていた。
やはり、高濃度ビタミンCの効果だったのだろうか?
途中、心不全を起こしぎみだったので、高濃度ビタミンC点滴を断念したが、少量でも打ち続ければ良かったかと、悔いが残る。
ただ、3年という時間もあったので、少しずつ母と共に父の病気を受け入れることもできた。
また、亡くなってから葬儀まで時間があったので、ゆっくりお別れできたので、本当に良かった。
家族思いの父だったので、本当に亡くなる間際まで家族のことを考えてくれていたのではと、思ってしまうほどである。
物静かな父だったということもあり、亡くなった気がせず、母と共にまだ一度も泣いたことがない。
いつもどこかで見守ってくるているような気がするし、かかりつけ医によると、精一杯、看護した家族は悲しみが少ないという。
確かに、やれるだけのことは手を尽くしたと思う。
本当にコロナにならければ、もう少し元気であったろうし。
そして、苦しまず安らかな最期だったから、我々もおだやかでいれるのかもしれない。
最後まで、家族のことを思ってくれていた父に感謝である。
今頃は仲の良かった友達と楽しくやっていることであろう。