アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

無為の体験を経た言葉

2023-04-29 16:56:07 | 老子neo

◎老子第81章 信言不美

(2007-05-31)

 

『信(まこと)のある言葉には、飾りがない。飾りのある言葉には、信(まこと)がない。

 

善い人は言い訳をしない。言い訳を言う人は善い人ではない。知者は博かろうとしない。広く覚えている人は、かえって知者でない。

 

聖人は何ものも蓄積しない。人のため、ありったけを携えていくが、しかもそれでいよいよ富んでゆく。

 

天の道は、すべてものを利して、害することがなく、聖人の道は為して、しかも争うということがない。』

 

無為の体験という「体験を超えた体験」は、言葉による表現はできない。だから言わないのであり、言う者はその体験が無い者である。

 

無為の体験を経た人の言葉だけが、信(まこと)のある言葉である。

 

今の時代は、自分を守るための言い訳をしなければダメとされる時代であり、言い訳をしない「善い人」を造らない時代である。

 

争うことがないとは何か。自分という個人も世界の森羅万象もまた自分である実感があって初めて争うということが発生しないのである。争わない(不争)とは、意図的に他のものと争わないのではなく、自然に争うことがないという消息はこのあたりにある。

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不争の徳は水の如し

2023-04-29 16:52:21 | 老子neo

◎老子第8章上善若水

(2011-06-18)

 

『最上の善は例えば水の如しである。即ち水というものは、善く万物のためになって、それと争うことがない。そしてすべてのものの嫌うところに居る。だからこの水の精神はほとんど道の性質に近いと言って良い。

 

我等がこの水の精神を体得するならば、われらが居る場所は必ず、その地を幸福なものにするであろう。またそのような状態の心は、淵の水のように波立たず、すべてを受け入れて奥深い。また他と与(とも)に不争の徳を守れば、その仁を善くすることになる。

 

またその言において不争の徳を守るならば、その信を善くすることができる。

 

また政治において不争の徳を守るならば、その治を善くすることができる。また物事を為すにおいて真に不争を守るならば、どのような難事にあっても、これを能くすることができる。

 

行動において不争の徳を守る時は、自然に出処進退することができる。』

 

 

この世の根源的要素としてのイデアとしての水の話であり、ギリシャの哲人ターレスが「万物の根源は水である」と述べたが、その『水』に近い。

ここは、心の状態や、政治のあり方、行動の仕方に敷衍して述べているが、昨今の他人を蹴落としてでも自らの利益を確保しようとすることを是とする風潮とは、正反対の説である。

 

現代人は、金をもらうこと(金の見返りに何かを期待されること)、自分がメリットを受けることの弊害について、より敏感にならねば、この消息について直観するのも難しいのかもしれない。

そうしたものを受け取った瞬間に「争」の世界に入り、不争の徳を失うからである。

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井上日召

2023-04-29 16:47:42 | マントラ禅(冥想法7)neo

◎見性後に暗殺集団を組織する

(2020-08-16)

 

井上日召は、昭和の初めに日銀総裁の井上準之助や三井財閥の総帥の團琢磨を暗殺した血盟団のトップ。血盟団は要人の一人一殺を標榜する暗殺集団だが、実は彼は日蓮宗の寺の住職であった時代がある。

 

大正13年頃、南無妙法蓮華経というマントラを何度も繰り返すことで、宇宙大自然と自分が一体になった実感を得た。

 

血盟団事件後の昭和9年には刑務所にいたが、その悟境を臨済禅の山本玄峰にも認められている。山本玄峰は第二次世界大戦時の日本の指導者の相談相手になっていた、それなりの師僧。

 

井上日召は、見性してから10年ほどで血盟団事件を起こしている。見性しただけでそのままにしておくとダメな例として見るべきだろう。

 

なまじ宇宙大自然と一体になった、神仏を見たという経験は、それを聞いた周辺がそっとしておいてはくれないし、本人も舞い上がりがち。

 

白隠ですら何度も舞い上がっては叩き落されを繰り返した。

 

ただし見性見神者が戦うのが邪道かというと、バガバッド・ギータのアルジュナ王子のように、正しく戦うケースもある。悟ったから戦わないというのは誤解である。

 

また老子の言う不争というのは、それとはまた違った意味で言っている。

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称名、マントラで懺悔

2023-04-29 16:44:09 | マントラ禅(冥想法7)neo

◎乱倫、娼婦

(2020-06-20)

 

ラーマクリシュナが語る。

 

素封家出身のモッリク某という女性がいたが、若いうちはさんざん悪いことをしたが年を取ってから称名に励んでいる。まあ、何もしないよりはまし。

 

彼女が、ある時、売春婦などでも救われるものでしょうかと尋ねてきた。自分はそれ以前にそれに似たことをかなりしてきたらしいので、そんなことを聞いてくる。

 

ラーマクリシュナは「救われます。心の底から懺悔して、泣きながら神様に祈って、もう二度と致しませんと誓えば。」と即座に答えた。(人類の知的遺産 ラーマクリシュナP251参照)

 

これは、乱倫も極まれば反転し収まるということだが、世界の混乱も極まって反転せねば治まらないということでは、同じ原理。

 

売春婦のことは貶めるくせに、ネットポルノ愛好家は無数にいる。そういう人間が大多数である乱れた時代に、次の世界大戦がないことを誰が予想できるものだろうか。

 

売春婦は、ソーマ・ヨーガの古代インド・ペルシャの頃など、高級神女のような尊敬されるべき職業であった時代がある。ダンテス・ダイジの前世の一つは高級娼婦であったことも、自ら明かしている。

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大田垣蓮月

2023-04-29 06:28:02 | マントラ禅(冥想法7)neo

◎棺には短刀を入れよ、遺体を男の手に触れさせるな

(2020-02-12)

 

大田垣蓮月は、幕末の尼僧にして陶芸家。鳥羽伏見の戦いの直後、西郷隆盛に対して、内戦継続を諫める和歌を送った女傑。

 

その歌は、

「あだ味方 勝も負けるも 哀れなり 同じ御国の 人と思えば」

 

大田垣蓮月は、両親が早逝し、養父に育てられた。亀山城の奥奉公の間、諸芸を磨き、文武両道に優れ、木刀、鎖鎌まで使いこなしたという。

 

2度結婚したが、二夫ともに先立たれ、子供も3人できたが、いずれも早逝。家庭的には、不運だった。最初の夫からはDVに悩まされた。

 

夫と死別後、絶世の美人だったが、前歯を抜いて老婆の如き面相に変えた。生涯二番目の夫のことを忘れなかったようである。

 

40代から陶芸を始め、これが良い商売となったが、金銭には廉潔、恬淡としていた。60代になってから、その小庵で、後の大文人富岡鉄斎を21歳から侍者として預かり鍛えた。

 

蓮月のお金観。

「金は、うちに残らぬがよろしい。入るだけ出るのがめでたい」

 

1850年(嘉永三年)の飢饉の年には、京都東町奉行所に匿名で30両(現在の約一千万円)を布施に行き怪しまれた。

 

ある時強盗が入ったが、蓮月は「金でも何でも好きなものを持っていきなさい」と燈明までつけて家探しを助け、はったい粉を練って腹ごしらえまでさせて家を送り出した。

 

ところが、翌朝その強盗は、路上で口から血を吐いて死んでいた。背負っていた風呂敷に蓮月とあり、蓮月は毒殺の嫌疑をかけられたが、どこからかもらったはったい粉ということでうやむやになった。

 

夜は灯をともして光明真言を唱えたという。彼女は自分の生涯を自他平等の修行と見た。

 

住居は三畳、食物は村人からのもらいもの。食器は茶碗ひとつ。来客には葉の上に飯を盛って出した。家財は、ろくろ、鍋釜、文机。質素ぶりは趙州のようである。

 

明治8年12月、84歳で亡くなった。遺言は、棺には短刀を入れよ、遺体を男の手に触れさせるな、と。

気に染む男は一人だけだったのだろう。

 

辞世:願わくは 後の蓮の花の上に 曇らぬ月を見るよしもがな

 

幕末維新の女と言えば、明治の元勲を助けた女ばかり取沙汰されるが、ちゃんとした求道者もいたものだと思う。

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太田垣蓮月、方寸の胸に阿弥陀仏を見る

2023-04-29 06:23:52 | まはさてあらん、AEIOU

◎美人の老後

 

太田垣蓮月は、幕末の京都の念仏者にして、大層な美人であった。夫と四人の子をなしたがすべて先立たれ、40歳の頃父(京都知恩院の広間侍)も病没し天涯孤独となり、やもめとして85歳の人生を生きた。

 

彼女は中年になってもその容色は、衆人を惹きつけるものがあり、その上和歌の名人であって、さらに作陶を生業としていたが、陶器に彼女の和歌を添えたものが飛ぶように売れた。

 

さて彼女は、明け暮れ念仏を怠らなかったのだが、本尊は木像や画像でなく、子供のおもちゃのような伏見人形だった。その伏見人形も一定でなく、かわいい童形だったり天神様だったりお姫様だったり、こだわらなかった。ある人がその理由を蓮月に問うと、「本尊ばかり立派な如来様でも、こちらの信心が未熟では、何もならない。私は方寸の胸にちゃんと阿弥陀如来を安置しているから、いつでもどこでも念仏を唱えれば如来に通じる。が、念仏するには何か目安がないといけないので人形を置くのだ。」とのこと。

 

※方寸の胸とは、微細身でブラフマンの宿る場所として知られている(魂の科学/スワミ・ヨーゲシヴァラナンダの第23図)が、念仏者からもこういう体験が出るとは。

 

さて、好事魔多し。中年老境になっても彼女の令名と美貌を狙ってうまいことを言って言い寄る者がやまない。ストーカーも少なくなかったのだろう。

 

彼女は、歌人と作陶家として有名になり、歌や陶器を求めて地方から上京して訪問する者引きも切らずとなった。これを煩わしく思って、彼女は住居を頻々と変えた。

 

年を取っても美人は美人。真剣に求道する者にとっては、余分な名声と淫欲から来るナンパは邪魔なだけである。

遺言に、棺には短刀を入れよ、遺体を男の手に触れさせるな、としたのは、やり過ぎかと思っていたが、実は当然だったのだろう。

 

知っている東証プライム上場企業の女性役員で結構美人の方がいるが、絶対に公式資料で写真を出さないのは、その辺の事情もあるのだろうと拝察する。慧春尼も美人であったが故に苦しんだ。

美人でないことを気に病む人が多いのだろうが、美人で苦しむことの方が大変なのではなかろうか。

 

※本記事は、美人禅/笛岡清泉を参照。

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