◎老子第81章 信言不美
(2007-05-31)
『信(まこと)のある言葉には、飾りがない。飾りのある言葉には、信(まこと)がない。
善い人は言い訳をしない。言い訳を言う人は善い人ではない。知者は博かろうとしない。広く覚えている人は、かえって知者でない。
聖人は何ものも蓄積しない。人のため、ありったけを携えていくが、しかもそれでいよいよ富んでゆく。
天の道は、すべてものを利して、害することがなく、聖人の道は為して、しかも争うということがない。』
無為の体験という「体験を超えた体験」は、言葉による表現はできない。だから言わないのであり、言う者はその体験が無い者である。
無為の体験を経た人の言葉だけが、信(まこと)のある言葉である。
今の時代は、自分を守るための言い訳をしなければダメとされる時代であり、言い訳をしない「善い人」を造らない時代である。
争うことがないとは何か。自分という個人も世界の森羅万象もまた自分である実感があって初めて争うということが発生しないのである。争わない(不争)とは、意図的に他のものと争わないのではなく、自然に争うことがないという消息はこのあたりにある。