◎アートマンとブラフマン
アートマンであるすべてのすべてと、ブラフマンあるいはニルヴァーナのなにもかもなしの関係性は、論理的にぶっ飛んでいるので理解を越えている。
以下はOSHOバグワンの説明。
『人間には二種類ある。 一方は、否定性に何の親近感も持てない。他方は、肯定性に何の親近感も持てない。 ブッダは否定的な部類だった。肯定性には何の親近感も持てず、否定性に親近感を持つ。それですべてに否定的な用語を使う。
シャンカラは否定性に何の親近感も持てない。それで彼は、究極の真実を肯定的な用語で呼ぶ。どちらも同じことを言っている。 ブッダはそれを、「シュンニャ」と呼び、シャンカラは「ブラフマン」と呼んでいる。ブッダは「空」、「無」と呼び、シャンカラは「絶対」、「すべて」と呼ぶ。どちらもまったく同じことを言っている。
シャンカラ批判の急先鋒のひとりに、 ラマヌジャという人がいた。そのラマヌジャいわく、「シャンカラは隠れた仏教徒だ。彼のヒンドゥー教は見せかけで、実際はそうでない。肯定的な用語を使うせいで、ヒンドゥー教徒に見えるだけだ。ブッダが無と言うところを、彼はブラフマンと言う。それ以外はみな同じだ」。ラマヌジャによれば、シャンカラはヒンドゥー教の大破壊者だ。詭計(トリック)を使って、裏口から仏教を招じ入れている――否定的な用語の代わりに肯定的な用語を使っているだけだ。 ラマヌジャはシャンカラのことを、「プラチャナ・ボーダ」つまり「隠れ仏教徒」 と呼ぶ。それにも一理ある。たしかに何の違いもない。言わんとしていることは同じだ。
だからそれは人による。 沈黙や無に親近感を持つ人は、その「大存在」を「空」と呼べばいい。また、それに恐怖を感じる人は、その「空」を「大存在」と呼べばいい。それによって技法も変 わってくる。』
(ヴィギャンバイラブタントラ(10空の哲学)OSHO P297-298から引用)
釈迦的な行き方は、諸行無常と諸法無我とどうしてもネクラな厭世観からスタートする。だが、釈迦の行法は、禅の只管打坐あり、公案禅のジュニャーナ・ヨーガあり、密教の入我我入あり、念仏あり、お題目ありと大体のメニューは揃っている。そしていきつくところは、シュンニャ、無。
一方シャンカラは、不二一元論であって、アートマンとブラフマンは同じだと言っているが、実在するというニュアンスに重きを置く。
このようにOSHOバグワンは、肯定性たるすべてのすべて=アートマンも否定性たるなにもかもなし=ブラフマンも同じだとするが、それは哲学ではなく、実際の「体験ではない体験」なのである。
その点の説明として、ダンテス・ダイジの『ニルヴァーナのプロセスとテクニック』にアートマンがブラフマンに進むイラストがあるが、これこそ何千年の聖者、求道者間の議論に解決をもたらした空前絶後の秘密の開示であったと言える。