◎君は神であるとともにまたとない人間なのである
西洋ではなぜ四元素なのに仏教では五大なのか。パラケルススは、第五元素に言及している。ニュートンも第五元素を認めているが物質レベルのものではなく、霊的レベルのものである。それをニコラ・フラメルも認めている。
ダンテス・ダイジの基本線は霊がかりをやめようということなのに、ここで改めて霊的世界観に言及する理由は、あくまで見神見仏見性を経た、つまり禅の十牛図で言えば第三図以降の人限定で語っているからである。
『【冥想五大の道】
五大とは、地水火風空の五つの神秘的シン ボルが、この世とかの世とを仮現せしめているということである。
宮本武蔵の「五輪之書」もこれに従っている。
地・水・火・風・空は、現象宇宙が創出される基本的な要素であるばかりでなく、霊 的宇宙の中にも霊的五要素のエネルギーの流れとして存在している。
ただし、人間の知的側面に映るあらゆる分類は、その時々の修行者の魂に役立つための方便にすぎない。
あらゆる二元性を超越し、超越したことも 超越した君にとっては、この世とかの世との種々様々な分類は、出入自在なる君の戯れと化している
君は、時間でない今、何よりも生きているのだ。』
(冥想道手帳 MEDITATION WAY MEMOダンティス・ダイジから引用)
五大は現象宇宙の構成要素であって霊的世界もそうであるという意味は、霊的世界から現象宇宙が発出されるのを前提としている。物理実験で、五大が検出されるわけではない。
またここで五大を述べるがそれが絶対ではなく、『人間の知的側面に映るあらゆる分類は、その時々の修行者の魂に役立つための方便にすぎない。』と釘をさす。
ノンデュアリティで、男と女、善と悪、光と闇、天国と地獄などの二元性の選り好みを超えたら、その超えたことも超越すれば、この世もあの世も生も死も出入り自在である。
『地大・基本冥想道
君は、君の本質的個性をおおらかに生きるとともに、無限それ自体を自覚している。
神と神のつくりしままの君という個性が、あるがままの君だ。君は神であるとともにまたとない人間なのである。
太郎には太郎の宇宙があり、メアリーにはメアリーの宇宙があり、君には君の宇宙がある。
それらの多様多元な宇宙は、完全な調和の中に遊んでいる。君が本当の自分自身を自覚体得した時、そこには、どのような衝突もない。
それと同時に、多様多元宇宙は一つというも愚かな一つなのだ。
私は、人が生きたり死んだりしない世界にあこがれて、冥想の道を歩んだ。
今、気がついてみると
冥想も悟りも消えてしまった。
ここに、人が生きたり死んだりしている。
完全そのものなる絶対無の私は
アルファ・ケンタウリスの
あの少女の人生を生きている。』
(上掲書から引用)
『君の本質的個性をおおらかに生きるとともに、無限それ自体を自覚している。』とは、見神見仏見性を経て、初めて自分の本質的個性をおおらかに生きることができるということ。君は神にして、またとない人。
そんな君は、誰のものでもない君の宇宙を生きる。そうした分断された各宇宙が他の宇宙と摩擦も起こさず、不思議なことだが、全体として調和のままに活動存在している。
それが、『それらの多様多元な宇宙は、完全な調和の中に遊んでいる。君が本当の自分自身を自覚体得した時、そこには、どのような衝突もない。』ということ。
『多様多元宇宙は一つ』とは、第六身体アートマンを指す。
冥想も悟りも消えてニルヴァーナにあるダンテス・ダイジは、
『アルファ・ケンタウリスのあの少女の人生を生きている。』。
私は、この『アルファ・ケンタウリスのあの少女の人生を生きている。』の一節が、とても好きだ。
『アルファ・ケンタウリス』は、ケンタウルス座のアルファ星系。太陽系から4.3光年しか離れておらず、地球から最も近い恒星系。
ダンテス・ダイジは、名前にケンタウロスが入っていた時期がアトランティス時代にあったようだが、それが、アルファ・ケンタウリスとどう関係があったのかはわからない。
ダンテス・ダイジの前世の少女のイメージといえば、アトランティスのレムリア時代の聖王トースの愛人の一人であったナツノだが、彼女がアルファ・ケンタウリス出身かどうかはわからない。
ダンテス・ダイジ座談などでは、最初に彼が地球に降り立ったのが、銀色に光る円盤であって、それがケンタウルス座のアルファ星系からのそれなのかシリウスからのそれなのかも判然としない。