◎愛により大悟覚醒に至る
真に人を愛しているという気持になることはあるものだ。だが、自分の想像上の相手を愛しているという空想に浸っているだけだったり、深い自己催眠で愛していると繰り返し自分に思い込ませていたりすることが大半である。
それでも中には、本当に愛しているケースもある。それをOSHOバグワンは、見分ける。以下は、愛によって大悟覚醒できるかという基準である。
質問者は、私は真に愛していると主張している。
『疑うわけではない。あなたは愛していると信じているかもしれない。あなたの確信は本当だ―――誰もだましてはいない。あなたは自分が愛していると思っている。だが種々の徴候を見ると、どうもそうではないらしい。
愛していることの徴候とはなにか。三つある。
第一に、絶対的な満足。ほかにはなにもいらない。神さえもいらない。
第二に、未来がない。この愛の瞬間こそが永遠だ。次の瞬間はない、未来はない、明日はない。愛は現在の出来事だ。
そして第三に、あなたは消える、あなたはいなくなる。まだあなたがいたとしたら、 まだ愛の寺院に入っていないということだ。
もしこの三つが起こったら、あなたがいなくなったら、そのときいったい誰が瞑想するだろう。もし未来がなかったら、あらゆる方法は無意味になる。方法とは未来のためにある、結果のためにある。今この瞬間に満足していたら、絶対的に満足していたら、どうしてなにかをする気になるだろう。
(』(ヴィギャンバイラブタントラ(2源泉への道)OSHO P244から引用)
真の愛は、肉欲でもなく、セックスでもなく、所有欲でもなく、閑つぶしでもなく、孤独の癒しでもなく、さみしさを紛らわせる材料でもない。
真の愛があれば、冥想法はいらない。
Vaundyの「踊り子」の歌詞のように、一度だけしか会ったことがなくても、真の愛が起こることもある。