アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

危険な沖縄、期待された沖縄

2023-04-19 20:53:10 | 時代のおわりneo

◎ダンテス・ダイジの超宗派的冥想

(2019-12-08)

 

『危険な沖縄 親日米国人のホンネ警告/ケント・ギルバート/ロバート・D・エルドリッジ/産経新聞出版』は平成28年の本だが、尖閣に中国船は入ってきても文句を言わない県知事が辺野古反対ばかり唱える事象を筆頭に、ほとんど中国の一自治区みたいになった沖縄の実態を浮かび上がらせる。

 

沖縄は、地理的にみて、上海、台北、釜山、福岡からほぼ等距離にあり、中国、台湾、韓国を睨むには絶好で、軍事的要衝であり、これがゆえに米軍基地が多い。ペリー提督が日本来航前に沖縄を測量したのは、その軍事的価値の故である。

 

だから戦前沖縄が捨て石作戦の犠牲になったから手っ取り早く沖縄に米軍基地が多くなったということではないと理解している。

 

ダンテス・ダイジは、自らの禅的悟りの修行場として沖縄を選んだ。なぜ沖縄を選んだかについて、その座談の中で、沖縄人は本土の人よりも因習的な先入観が少ないということを語っている。

 

悟りの修行は、多くの部分が先入観を取り去るということだが、沖縄の人はその土台のところで一歩リードしていると見たのだろう。

 

その成果がダンテス・ダイジの超宗派的冥想という小冊子。この小冊子を今眺めてみると、後の『ニルヴァーナのプロセスとテクニック』の骨組みの外形が現れているのに気づく。当時これを読んでも腑(はら)落ちしなかったのだが、ダンテス・ダイジ自身がこれは沖縄人向けに書いたのだというコメントがあり、また沖縄人の精神には戦争の影響が大きいことも言っていた。そのことが、この小冊子がバランスを欠いた印象を与える原因かと自分を納得させていた。

 

今読み返すと、七つの身体論がないところが、今一つ説得力を欠く理由なのかと思う。ダンテス・ダイジは「超宗派的冥想」以後に、クンダリーニ・ヨーガでのニルヴァーナを得たので、そこで初めて七つの身体を実証したのだろう。

 

映画『涙そうそう』(なだそうそう)は、2006年の日本映画。主演は妻夫木聡と長澤まさみ。借金返済のために過労のお兄ちゃんが、はかなくも病死する話。正しく、生きて死ぬ。人間のまともさという点では、よい。だが、今の人間は既成の先入観の人間という枠をジャンプ・アウトしなければならない。

 

沖縄の人には海外移民が多いというのは、その可能性という点ではベースが高いことを示しているのだろう。

 

だが、今の沖縄人はどうなのだろうか。

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女性にとってセックスは未知の旅

2023-04-19 06:29:39 | 時代にFace it

◎実質無視されている女性のリアル

 

女性は、セックスを恐がる。なぜならセックスは未知の旅だからである。

 

その旅に出ていく決心をするには、

1.相手の男を深く愛していること。

2.九ヶ月のあいだ子供を宿し産んで、一生それにつき合っていく覚悟があること。

3.その一生の重荷で苦しむ覚悟や自分が犠牲になる覚悟があること。

 

このようなものが必要であることを知っているから、容易には女性は自分の肉体に男を入れない。

 

男性でもこれらの点をわかっている人はいるが、本音ベースで多数とは言えない。だが恐ろしいことに、 コンビニ・書店で並ぶエロ系写真・記事やネットに氾濫するエロ動画、アダルトAVは、こうした女性の当たり前の立場、考え方は無視して、女性を男性の性欲に隷従する奴隷のような、男性に都合のよい存在として扱っているものだ。

 

男性がこうした女性観をもって社会に出れば、隠れて痴漢も行うし、盗撮もする者も出る。痴漢も盗撮もかつては、性倒錯というちゃんとした病気の扱いだったのではないだろうか。またそうした考え方で結婚に臨めばうまくは行きますまい。

 

そしてこうした歪んだ女性観のエロ情報エロメディアはビッグビジネスになっているが、長い目で見れば少子化の遠因のひとつでもある。また毎日ニュースサイトを賑わす子棄て子殺しの原因の一半は、貧困だけでなく、こうした女性観もあるのではあるまいか。

責任をとらない男性が多いということ。

 

価値観の多様化のもとに、まともとは言えない女性観がはびこっているのは、日本社会の不幸ではある。

 

かくして当たり前の男女関係が成立しにくくなったが、ときにはちゃんとわきまえたカップルもある。

 

女性は、相手の男性を深く愛していればこそ、自ら苦しみ、犠牲にもなれる。さらに、深い愛の中で犠牲となり苦しむことは、至福に満ちている。

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