◎単一ではないメソッド
(2013-05-18)
只管打坐、クンダリーニ・ヨーガと言っても、それだけ坐っているわけではない。このブログの「冥想の準備」カテゴリーにあるように、禁酒、禁煙、禁肉などして肉体の調子を整えて、柔軟体操(ハタ・ヨーガ、太極拳・八段錦など)をやって身体をほぐして、呼吸法を何セットかやって、読経や祝詞などで発声・祈願などして、おもむろに坐る(只管打坐・クンダリーニ・ヨーガ)、そしてだんだんと呼吸を落としていく。
こういう一連の冥想技法の組み合わせをメディテーション・コンプレックスと呼ぶ。呼び名はともかく、宗派に限らず冥想の専門道場・修道院では、似たようなことはやっているものではないか。一日に何時間も坐るためには、メインの冥想のための助走の冥想や体操、運動、呼吸法、作務などが必要なものである。
環境の問題ということで言えば、一日に何時間も坐れるというのは、衣食住がなんとかなっていること、時間が捻出できること、坐ろうというモチベーションがあることがその前提条件となる。
住所が一定で、その日の食事に事欠かなければ現代人の大方は、日に一時間程度の冥想は可能なものではないか。むしろ現代人の大方は、長時間?の余暇をネットやスマホやテレビで、こまぎれに自分の慰め・気分転換のために浪費し続けているのではないか。
そうした時間の浪費の仕方こそ、現代人のカルマを日々の小悪の積み重ねに仕立てる典型なのではなだろうか。こういうのが小人閑居して不善を為すの謂いだろう。
そしてモチベーションの問題。これは、冥想しても金がもうからないということと、自分勝手な願望が実現するとは限らないということ、とりわけ世の大峠、世の終わりで生き残るかどうかわからないということが、モチベーションがわかない理由の最たるものである。
これでは、千年たっても人は冥想に取り組もうする日はやってこない。既に人間のあらゆる生業の行く末を見切って、万事休した気分がまずないと、人の関心は冥想には向かないのではないか。
メディテーション・コンプレックスはメソッドのこと。しかし冥想があるには、その上に本人のモチベーション、そして師匠(グル、マスター)・指導者が必要である。その師匠は最低でも見性・見神していることが条件となる。
このようにクリヤすべき条件は厳しいがそれを乗り越えないと千年王国はない。