アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

メディテーション・コンプレックス

2023-04-09 20:39:07 | 冥想の準備neo

◎単一ではないメソッド

(2013-05-18)

 

只管打坐、クンダリーニ・ヨーガと言っても、それだけ坐っているわけではない。このブログの「冥想の準備」カテゴリーにあるように、禁酒、禁煙、禁肉などして肉体の調子を整えて、柔軟体操(ハタ・ヨーガ、太極拳・八段錦など)をやって身体をほぐして、呼吸法を何セットかやって、読経や祝詞などで発声・祈願などして、おもむろに坐る(只管打坐・クンダリーニ・ヨーガ)、そしてだんだんと呼吸を落としていく。

 

こういう一連の冥想技法の組み合わせをメディテーション・コンプレックスと呼ぶ。呼び名はともかく、宗派に限らず冥想の専門道場・修道院では、似たようなことはやっているものではないか。一日に何時間も坐るためには、メインの冥想のための助走の冥想や体操、運動、呼吸法、作務などが必要なものである。

 

環境の問題ということで言えば、一日に何時間も坐れるというのは、衣食住がなんとかなっていること、時間が捻出できること、坐ろうというモチベーションがあることがその前提条件となる。

 

住所が一定で、その日の食事に事欠かなければ現代人の大方は、日に一時間程度の冥想は可能なものではないか。むしろ現代人の大方は、長時間?の余暇をネットやスマホやテレビで、こまぎれに自分の慰め・気分転換のために浪費し続けているのではないか。

 

そうした時間の浪費の仕方こそ、現代人のカルマを日々の小悪の積み重ねに仕立てる典型なのではなだろうか。こういうのが小人閑居して不善を為すの謂いだろう。

 

そしてモチベーションの問題。これは、冥想しても金がもうからないということと、自分勝手な願望が実現するとは限らないということ、とりわけ世の大峠、世の終わりで生き残るかどうかわからないということが、モチベーションがわかない理由の最たるものである。

 

これでは、千年たっても人は冥想に取り組もうする日はやってこない。既に人間のあらゆる生業の行く末を見切って、万事休した気分がまずないと、人の関心は冥想には向かないのではないか。

 

メディテーション・コンプレックスはメソッドのこと。しかし冥想があるには、その上に本人のモチベーション、そして師匠(グル、マスター)・指導者が必要である。その師匠は最低でも見性・見神していることが条件となる。

 

このようにクリヤすべき条件は厳しいがそれを乗り越えないと千年王国はない。

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坐と西洋人

2023-04-09 20:33:41 | 冥想の準備neo

◎体格の大型化と冥想姿勢

(2015-07-06)

 

禅と神秘思想/エノミヤ・ラサール/春秋社には、西洋人は背骨を支えられないので坐が苦手であることが書いてある。

 

結跏趺坐か、半跏かということになるのであるが、結跏は日本人でもある程度の修錬(柔軟体操など)が必要であり、かつまた背骨を立て続けるには結構な筋力が要る。半跏であれば、大体の日本人であれば問題あるまい。

 

西洋人は半跏であってさえも苦痛があるのが一般的で、痛みなく半跏できる西洋人は稀だと言う。

 

かつての曹洞宗の長老宮崎奕保禅師も晩年は趺坐するのが大変だったようだ。

 

老齢になると日本人でも筋力が落ち、柔軟性も落ちるので、若い時には考えもしなかった筋力アップや柔軟体操が必要になるとは思わなかった。

 

結跏趺坐だけが、冥想姿勢ではないが、西洋人のボディが冥想向きではないという一つの傾向だろう。

 

さてここのところ日本人の体格が向上してきて、陸上短距離や、水泳、野球など世界的に通用する人間が徐々に出てきている。要するに日本人の体格が大型の西洋人に近づいているということで、そのことが却って脊柱を立てるという冥想姿勢の基本の一つができにくくなっているのではないかと懸念されることである。

特に女子の体格大型化は目立つ。

 

冥想に適する肉体という議論は間違った方向を向きがちなのだが、これも一つ注目すべきポイントではないかと思う。

 

冥想姿勢の基本は、結跏趺坐は身体固定だが、クンダリーニ・ヨーガの姿勢はゆるいということ。

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釈迦の実力

2023-04-09 17:54:28 | 究極というものの可能性neo

◎ウダーナヴァルガ

(2009-05-18)

 

釈迦の名を借りた経典は多い。その中で釈迦本人の言と言われる数少ないものが、ウダーナヴァルガ(感興のことば)。

 

『25.来ることも無く、行くことも無く、生ずることも無く、没することも無い。住してとどまることも無く、依拠することも無い。――――それが苦しみの終滅であると説かれる。

 

26.水も無く、地も無く、火も風も侵入しないところ---、そこには白い光も輝かず、暗黒も存在しない。

 

27.そこでは月も照らさず、太陽も輝かない。聖者はその境地についての自己の沈黙をみずから知るがままに、かたちからも、かたち無きものからも、一切の苦しみから全く解脱する。

 

28.さとりの究極に達し、恐れること無く、疑いがなく、後悔のわずらいのない人は生存の矢を断ち切った人である。これが彼の最後の身体である。

 

29.これは最上の究極であり、無上の静けさの境地である。一切の相が滅びてなくなり、没することなき解脱の境地である。』

(真理のことば感興のことば/中村元訳/岩波文庫P244から引用)

  

修行の基本は、悪を為さず、善を為すこと。そこから始まって、地水火風の四大・四元素もない現象の生起しない世界に踏みいる。そこには光も闇もない。

 

これはもはや人間個人の世界ではなく、それを描写するに値する言葉もない世界のこと。第六身体以上の世界でのこと。

 

ウダーナヴァルガには所々に、解脱する人は最後の肉体であることが語られているが、今生で解脱するような人は輪廻転生の最終ターンとしての肉体であることが、堂々と指摘されている。さすがに釈迦であり、そのフランクな語り口で重厚な真実を惜しげもなく述べている。

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熟睡中の夢も見ない状態

2023-04-09 16:49:41 | 究極というものの可能性neo

◎神性の具現
(2009-06-01)

ウパニシャッドでは、インドラの師であるプラジャーパティが、「人が熟睡して、精神統一され、一点の曇りもない時に人は夢を意識しない。これがアートマンである。それは不死なるものであり、ブラフマンである」と説明したところ、

インドラは、「熟睡中の夢も見ない状態がアートマンであるという説には何のメリットもない」として納得しなかった。こうしてインドラは101年間プラジャーパティの下で修行をすることになった。

プラジャーパティの別の説明:
風や雷鳴は身体を備えていない。これらのものは、かの空間から立ち上がり最高の光となった後、それぞれ自らの形をもって現れ出る。

それと同様にアートマンはこの身体から立ち上がり最高の光となった後、それ自らの形をもって現れ出る。
(参考:人類の知的遺産・ウパニシャッドの哲人/講談社)

プラジャーパティの別の説明では、アートマンはかの空間である死の世界で発出して、最高の光に起源を持つが、その後個別性を持ってこの世に現出するというアートマンの位置づけを知り納得している。

つまり我々個人は熟睡中の夢を見ない状態でアートマンに帰り(アートマンに個別性はないが・・・)、その後個別性を持って夢の世界より帰還するのだが、それは個人の側から見た説明であって、アートマンの側からみれば、そのメカニズムこそが人の神性の具現であるということになるのだと思う。

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熟眠中に夢も見ない悟った人

2023-04-09 06:06:54 | アヴァターラ神のまにまに

◎無意識の部分が意識化される

 

悟った人でも、熟眠中に夢も見ないのが真に悟った人。なぜ夢を見ないかについて、OSHOバグワンが説明しているが、要点は以下。

 

  1. 悟っていない人では、日中に未完結だった行為は夢の中において完結される。一方悟った人は、常に今ここの行為に生きているから、未完結の行為はない。よって夢は見ない。悟った人は、昼に思考なく、夜には夢がない。

 

  1. 夢を見るには、眠りに入らなければいけないが、眠りに入ると無意識になり、夢が起こる。悟っていない人は、ともすれば一晩中眠りながら夢で頭を使っているものだから、起きたら疲れ果てていることすらある。

 

  1. 悟りとは、無意識の部分が意識化されること。悟った人は眠りに入っても無意識にならないから夢を見ない。

 

(以上参照:ヴィギャンバイラブタントラ(6覚醒の深みへ)OSHO P246-252)

 

さらにパタンジャリのヨーガ・スートラ1-10では、『深い睡眠とは、目覚めた状態も夢を見る状態も否定された心のはたらきである。』

(現代人のためのヨーガ・スートラ グレゴール・メーレ/著 ガイアブックス P ixから引用)

 

さらに禅の三祖の信心銘

「夢幻空華、何ぞ把捉に労せん。

得失是非、一時に放却す。

眼若し睡らざれば、諸夢自から除く。

心若し異ならざれば、万法一如なり。」

つまり、眼が眠らなくて、睡眠時も意識的であれば、自ずと夢は見なくなるのだ。

 

荘子にも『古の真人は、眠っても夢を見ず、起きていても憂いがなかった。』(大宗師篇)とあり、睡眠時での想念不発生を展望している。

 

だが、実際のところ、アメリカの覚者ケン・ウィルバーも古代インドのインドラの師であるプラジャー・パティも悟ったと称してから夢をみないようになるまでは、相当期間の修行が必要だった。簡単ではないのだ。

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