アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

雲ひとつない空のような意識

2023-04-03 06:13:35 | アヴァターラ神のまにまに

◎達磨とOSHOバグワンの説明

 

6世紀南朝の梁は地方王朝だったが、武帝は中国の王侯には珍しく仏教崇拝者だった。仏教的に見れば、敬虔な仏弟子だったが、本当のところはわかってはいなかっただろう。

 

さて梁の武帝が達磨に対して、「最上の仏法とはどういうものか?」と問うた。

達磨は、「廓然無聖(かくねんむしょう)(秋空のようにからっとして聖なんてものは無い)」と答えた。

 

この回答が出てくるということは、梁の武帝は今生で悟るかどうかはわからないが、近い将来の転生で悟るであろう雰囲気があったのだろう。

 

そして達磨は秋の青空で例えたが、OSHOバグワンも同じような大空で例えている。

 

『もっとも内奥の中心では、あなたはただの意識だ。想念は雲のようなものだ。想念はあなたにやってくる―――だがあなたのものではない。想念はすべて外側からやってくる。あなたの内側ではひとつの想念も生まれない。想念はすべて外からやってくる。内側で想念を創り出すのは不可能だ。想念とは、あなたにやってくる雲のようなものだ。だから考えているときには、あなたは 内にいない。思考というのは、外にいるということだ。たとえ、思考の対象が内的なものであろうと、魂についてであろうと、自己についてであろうと、あなたは内にいない。

 

このような「自己」や、内的なものや、内側についての想念は、すべて外からきたものだ。あなたのものではない。あなたのものであるのは、ただ単純な意識だ―――雲ひとつない空のような意識だ。』

(ヴィギャンバイラブタントラ(2源泉への道)OSHO P174-175から引用)

 

本来の自分の意識が青空であって、そこに雲のような想念や思考が浮かぶ。神社に鎮座する鏡は本来の自分の意識のシンボルであるというのは、もっともなことである。鏡を青空にたとえている。

 

本来の自己とは、第六身体アートマンのことだが、アートマンは世界全体、宇宙全体であり、その相が雲ひとつない空のような意識であることを証明するには、自分自身が体験するしかないと思う。

コメント
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