◎冥想教育の可能性
(2005-07-30)
次の時代は学校で冥想教育をする時代だが、そのあり方を感じさせる一文がある。
小学校から、15歳くらいまでの間に、見性させるくらいの冥想カリキュラムが自然な姿かもしれない。
『ある子供で頭の良いのが、仏はいかなるものかと問うたので、そこで坐禅をさせると、何の心もなくなった。それを常に守れば良しと教へ、さて程経ていろいろになった心を訊ねたら、納得して去った。
男女に限らず、まず本性を悟らせて、それから坐禅させると良い。本性の悟りが十分にできたとき、万事に対応することを教へよ。
悟ったと同時にそれを守らせよ。悪念が生まれることが無い。年久しくこの心を養えば、道人となるのである。
悟ったと同時に、万事は是だと教へると、大方悪人になるものだ。悟りばかりを守る人は、大方坐禅に取りついて、律宗になるものだ。大道を早く教へて悪いのと、その人に依って異なる。よくよく心得て教へよ。誤ってはならぬ。』
(龍沢寺所蔵法語/日本の禅語録/無難・正受 P191-192から引用)
※律宗:仏教13宗の一つ。戒律の実践を成仏の因とする。本山は唐招提寺。
子供に幼少から冥想をさせると、思春期には見性するということを聞いたことがある。
この「あたまの良い子」は、すっと見性した。そこで、見性を守らせ、見性が十分に深まるのを待った。そこで、万事にどう対応するかを聞いたら、心得て去ったのである。
至道無難は、まず見性し、その見性を深めるために、坐禅させると良いと言う。見性で見つけた牛は、簡単に逃げるもののようなので、見性したと同時にその状態を守らせることが大事なのだとする。
「悟ったと同時に、万事は、これだと教えると、大方悪人になるものだ。」とは、見性した時の感動は、全身心で手の舞、足の踏むところを知らずといったものだから、それを得て高ぶったところに、「あなたは、仏の境地を知ったのだから、その正しい境地から行動しさえすればよいのだ」などと師匠がアドバイスした途端に、「私は、仏そのものなのだから、何をしてもいいんだ」と思って、以後勝手放題に行動して、悪人となる消息も想像される。
よくカルトの教祖が、悪人になってしまうことがあるが、カルトの教祖でも見性体験があって、そこで、このようなヒントやアドバイスをもらって悪人となる例もあるのではないだろうか。
次の2首で、見性したくらいでは、その行動はすべて善となるわけではないことが戒められている。同様にスピリチュアル体験しただけでは、その行動がすべて善になるわけではないので、よくよく気をつけないと。
やがては人の師になろうとする人に
無一物になった時には何事も罪にならぬと思ふ悲しさ。
(無一物になりぬるときに 何事も とかにならぬと見るそ かなしき)
ある法師に
悟ったからと言っても、自分で心を縛ったら、その束縛の解けないうちは凡夫なのだよ。
(さとりても 身より心をしはりなは とけさるうちは ほんふなりけり)
※(2023-4-25)
至道無難は、何よりもまず自分自身の悪を除去することが大切と説いた。悪の不在を目指す。
OSHOバグワンは、善とは悪の不在のことだとする。
○○することが善であると教えても、実際にそのTPOでそれが善であるかどうかわからないことの方が実際の場では多いのかもしれない。それで、至道無難はまず悪を除去せよといい、OSHOバグワンは、悪の不在が善だと唱えるのだろう。