アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

至道無難-5

2023-04-25 19:55:02 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎冥想教育の可能性

(2005-07-30)

 

次の時代は学校で冥想教育をする時代だが、そのあり方を感じさせる一文がある。

小学校から、15歳くらいまでの間に、見性させるくらいの冥想カリキュラムが自然な姿かもしれない。

 

『ある子供で頭の良いのが、仏はいかなるものかと問うたので、そこで坐禅をさせると、何の心もなくなった。それを常に守れば良しと教へ、さて程経ていろいろになった心を訊ねたら、納得して去った。

 

男女に限らず、まず本性を悟らせて、それから坐禅させると良い。本性の悟りが十分にできたとき、万事に対応することを教へよ。

 

悟ったと同時にそれを守らせよ。悪念が生まれることが無い。年久しくこの心を養えば、道人となるのである。

 

悟ったと同時に、万事は是だと教へると、大方悪人になるものだ。悟りばかりを守る人は、大方坐禅に取りついて、律宗になるものだ。大道を早く教へて悪いのと、その人に依って異なる。よくよく心得て教へよ。誤ってはならぬ。』

(龍沢寺所蔵法語/日本の禅語録/無難・正受 P191-192から引用)

 

※律宗:仏教13宗の一つ。戒律の実践を成仏の因とする。本山は唐招提寺。

 

子供に幼少から冥想をさせると、思春期には見性するということを聞いたことがある。

この「あたまの良い子」は、すっと見性した。そこで、見性を守らせ、見性が十分に深まるのを待った。そこで、万事にどう対応するかを聞いたら、心得て去ったのである。

 

至道無難は、まず見性し、その見性を深めるために、坐禅させると良いと言う。見性で見つけた牛は、簡単に逃げるもののようなので、見性したと同時にその状態を守らせることが大事なのだとする。

 

「悟ったと同時に、万事は、これだと教えると、大方悪人になるものだ。」とは、見性した時の感動は、全身心で手の舞、足の踏むところを知らずといったものだから、それを得て高ぶったところに、「あなたは、仏の境地を知ったのだから、その正しい境地から行動しさえすればよいのだ」などと師匠がアドバイスした途端に、「私は、仏そのものなのだから、何をしてもいいんだ」と思って、以後勝手放題に行動して、悪人となる消息も想像される。

 

よくカルトの教祖が、悪人になってしまうことがあるが、カルトの教祖でも見性体験があって、そこで、このようなヒントやアドバイスをもらって悪人となる例もあるのではないだろうか。

 

次の2首で、見性したくらいでは、その行動はすべて善となるわけではないことが戒められている。同様にスピリチュアル体験しただけでは、その行動がすべて善になるわけではないので、よくよく気をつけないと。

 

やがては人の師になろうとする人に

無一物になった時には何事も罪にならぬと思ふ悲しさ。

(無一物になりぬるときに 何事も とかにならぬと見るそ かなしき)

 

ある法師に

悟ったからと言っても、自分で心を縛ったら、その束縛の解けないうちは凡夫なのだよ。

(さとりても 身より心をしはりなは とけさるうちは ほんふなりけり)

 

※(2023-4-25)

至道無難は、何よりもまず自分自身の悪を除去することが大切と説いた。悪の不在を目指す。

OSHOバグワンは、善とは悪の不在のことだとする。

○○することが善であると教えても、実際にそのTPOでそれが善であるかどうかわからないことの方が実際の場では多いのかもしれない。それで、至道無難はまず悪を除去せよといい、OSHOバグワンは、悪の不在が善だと唱えるのだろう。

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至道無難-4

2023-04-25 17:10:26 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎至道無難の悟境

(2005-07-28)

 

 生死即涅槃

 生死もしらぬところになをつけて

 ねはんといふも いふはかりなり

(生も死も、わからぬものに名をつけただけで、

 涅槃というのはそういうだけのもの) 

 

涅槃(ニルヴァーナ)を直接見た者であって初めて、涅槃とは言葉では表現できないものに対して、仮そめに名をつけたものであるというものであることを確認できる。この言葉があることにより、至道無難が涅槃(ニルヴァーナ、宇宙意識、タオ)を知っていることがわかる。

 

 

 仏道はありがたしといふ人に

 ものごとに心とむなととくのりの

  法にこころをとむるひとかな

(仏道はありがたいという人に対して、

ものごとに執着するなと説く仏道の

その法に執着するとはおかしい人だな)

 

 あらゆるものが、仏道の現れであることを知る体験が、仏道の側から起きれば、仏道は確かにありがたいことを知るが。その体験なしにただ「仏道はありがたい」と唱えても、その「仏道はありがたい」という執着すらも捨てないと、仏道の正体にはたどりつけないということだと思う。

 

 強いて仏になろうと願う人に

 さかさまにあびじごくへは 落つるとも

 仏になるとさらにおもふな

(何とか仏になろうとする人に対して、

たとい逆しまに阿鼻地獄へ落ちようとも

 仏に成ろうなど決して思いなさるなよ)

 

仏というものは、自分を離れてはないのであって、本当の自分ではない「仏」という、よそのものに間違ってもなろうとしてはいけない。

 

最初の一首は、仏そのものの実感を言い、後の二首は、修行者向けの警句である。

ちゃんと本当のものを知っている人がいて、それを見抜く目を持った周りの人がそれを伝えて、臨済宗の法灯が伝わっていく。臨済宗でなくとも、神道などでも、このようにして、過去連綿としてそれを伝えてきたはずだけど、今の時代に、その生きた真理そのものを持っている人がどの程度残っているのだろうか。文明の衰退とはそんな人が少ないことを言うのだと思う。

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至道無難-3

2023-04-25 17:06:02 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎一生ずっと坐禅、一度だけ坐禅

(2005-07-27)

 

『伊勢の国に一生坐禅して死んだ人がある。その人自身のために貴いことだ。かつその人自身坐禅して死んだのはよいことだ。もし病気で苦しむようになれば、坐禅できるかどうか覚束ない。

 

我が師愚堂国師は、一度の坐禅も、これが一生涯一度の坐禅、と思ってやれとおっしゃった。有りがたいことだ。』《至道無難/自性記》

 

坐禅して死んだとは、メンタル体で肉体から出たことを言っているようです。

 

人生一回きりなんだから、死んで天国に行ったらいい目を見れるから、今善行を積みましょうなどという宣伝には乗れないですよね。その理屈は、まずこの人生の可能性を捨てて、死後の生に賭けろと言っているわけですから、どこか欺瞞の雰囲気があるように思います。

 

輪廻転生とか前世があるではないかという反論もあろうかと思いますが、輪廻転生も前世も、いわゆる大悟は、それらを問題にはしていません。

 

また積善は、積善という行為を通じて、自我というものをなくして行こうとする行為であって、決して来世での恵まれた生活のための打算的行為であってはならないと思います。

 

一日の生活もこれが一生涯最期の一日としてやれということでしょうが、そこまで追い込んでも、成道できるかどうかは別の問題。ただ自分をそこまで追い込んでいくほどの情熱がなければ、そういうチャンスも訪れないでしょう。

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至道無難-2

2023-04-25 16:58:04 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎至道無難の無私

(2005-07-26)

 

『鎌倉での話。ある金持ちの老人が無難を尊崇して、庵を作って住まわせ、常に敬ひ事(つか)えていました。しばらくして老人の家の女が懐妊しましたので、いろいろに責め問いただすと、和尚が忍び忍びに通われた結果だと答えました。

 

老人は憤って、今まで貴く思っていたのに、とんでもないことだ、早々に庵を出て、何処へでも行きなさいと罵ります。禅師は一言もいわず出て、雪の下あたりの親しい者の所へ行きましたが、この人も禅師の信者で、空いている寺を世話して食事などを運びました。

やがて例の女は、実は誰それと通じて孕んだので、和尚とはお話をしたことも無いと白状しました。

 

老人は驚いて雪の下へ駆けつけ、涙ながらにお詫びすると、禅師はにこにこ笑っただけでした。そして老人の請いに応じて、再び元の庵に戻ったという話です。』

《日本の禅語録/無難・正受 P18-19から引用》

 

懇意にしている人から、根拠のない言いがかりをつけられて、それに反論もせず相手のいいなりになってあげる。

 

これは、世間から見れば、極端に人の良い人ということになる。こういった人の良い人というのは、多重債務者と並んで、マルチ商法や違法金融やリフォーム詐欺などの標的になりやすく、「優良顧客リスト」に載って名前が出回り、複数の業者から狙われるようなことが知られて、昨今問題になっているほどである。

 

このように、悪辣な手合いが多い現代では、禅師のように自己防衛機能が低い人間は、むしろ生き抜くのが極めてむずかしいとも考えられるのである。十牛図の入鄽垂手などを見る限りでは、覚者が陋巷(ちまた)で生きるのは、気楽なものと感じられやすいが、覚者がそのまま現代で生きるのは、至道無難のような人ですら至難と思われる。相手の悪意や誤解の如何によらず、財産や金をむしりとられるがままにされているはずだからである。それが衆善奉行、諸悪莫作の道なのである。

 

従って、このように覚者がまともに生きるのを許さない現代社会は、誠にもって邪境とか、クレイジー・ワールドと呼ぶしかない社会であるということになる。これも現代文明が危機であり、破綻に瀕している証拠の一つである。文明の華は、芸術ではなく、実はそういった聖者が出ることであるから、華を認めない文明が、いつまでも存続できるものなのだろうか。

 

またこの話は、昔ながらの「聖者は、人格的にできている」という教訓話とも読まれることもあろうが、どうかと思う。

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至道無難-1

2023-04-25 16:29:09 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎至道無難の愛と大安心

(2005-07-25)

 

至道無難禅師は、慶長8年(1603)に、関が原の三輪家の長男として生まれた。臨済禅の灯火を伝えた重要な人物である。

 

『ある日至道無難禅師が懇意な商家に行くと、折節その家が大がかりな掃除中で散らかしてあり、空いている一間に主人と話していました。

そこに別の商家の使いが来て、紙に包んだ金を渡して帰りました。

長らく話をして、禅師が去った後、主人は金のことを思い出して、懐や、たもとなど探したが見つかりません。しかたなく禅師の許へ行き、もし何かの間違いで持ち帰られたのではないか、と訊ねると、禅師はそれだけの金を取り出して主人に与えました。

 

数日後に主人は、例の一間の鴨居の塵を払っていると、紙包みの金が落ちて来ました。主人は驚き、禅師のところへ走り、金を返して詫びると、禅師は何事もなかったように、それは思い違いをなさったのでしょうと、無心にその金を受け取ったのでした。』

《日本の禅語録/無難・正受p18から引用》

 

事実とは相違する言いがかりをつけられ、事実とは異なるのに、その言いがかりを認め、弁償までしてやった話である。

 

これは、単純に善行を行い、悪行をしないという「道徳的姿勢」では対応できないシチュエーションである。これは、功利的な「目には目を」的な発想からすれば、とんでもない話であるが、「自分がどうなろうと自分の知ったことではない」という姿勢が骨身に徹していないと、身に覚えの無い罪をかぶせられて、躊躇せず金を渡してやることなどできることではない。

 

そして、「自分がどうなろうと自分の知ったことではない」という姿勢は、利己的なものがないだけでなく、自分も他人も同じ仏のあらわれであるという窮極のところを承知していないと出てくる姿勢ではない。それは、仏があなたや私として現れているということであり、仏(神、ニルヴァーナ)の一つの属性である「愛(大慈大悲)」(アナハタ・チャクラ)と「大安心」(スワジスターナ・チャクラ)の働きとしても見える。

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冥想道手帳 ダンテス・ダイジ-20

2023-04-25 06:35:06 | ダンテス・ダイジの風光

◎時間も空間も現象もない君が、時間と空間と現象の中に

 

地水火風、特殊冥想ときて、ようやくすべてに共通する要素である空冥想を語る。

 

『空・冥想自在

 

生きることなく生き

死ぬことなく死ぬ

雨の一しづくに涙を流し

火の中に安楽に坐る

海のようにすべてを飲み込み

一服のマリファナに大喜びではしゃぐ

この世とあの世の何もかもが

本当の私の身体だ

冥王星の売春婦が

赤ん坊を産む時の苦しみが私だ

苦しみのない寂静それ自体が私だ

 

冥想自在とは出入自在のことである。君は あらゆる宇宙を自由自在に出入する。

時間も空間も現象もない君が、時間と空間 と現象の中に、あらゆる物語を戯れている。それと同時に、君は君にしかできない生き方で生き切り、そして死んでゆく。

 

言うそばから嘘になってしまう、かつて一度たりとも何かが語られたことはない。そして嘘という真実。

 

愛する二人に

言葉はいらない

 

二元論に非ず、一元論に非ず、不二一元論に非ず、悟りに非ず、迷いに非ず、決して語ってはならない、君の恋心を。

 

夢、語るとはするな

汝が恋を

語るにも語るすべなき

恋なれば』

(冥想道手帳 MEDITATION WAY MEMOダンティス・ダイジから引用)

 

『生きることなく生き 死ぬことなく死ぬ』と、生死を越えている。

 

『雨の一しづくに涙を流し』は、出口王仁三郎の高熊山での一週間の断食絶水修行で顔に落ちてきた一滴の露に涙を流したことを思わせる。

 

『火の中に安楽に坐る』は、最乗寺の慧春尼が、薪を積み上げて燃やした上に自ら平然と坐り、兄の了庵が、「慧春、熱いか、熱いか」と問うと「冷熱は生道人の知るところにあらず」と答えた故事を思わせる。

 

『この世とあの世の何もかもが 本当の私の身体だ』とは、第六身体アートマンの謂い。その立場で、『冥王星の売春婦が

赤ん坊を産む時の苦しみが私だ

苦しみのない寂静それ自体が私だ』と、苦しみのあることも苦しみもないことも二つながら私だと語る。これはOSHOバグワンの、天国と地獄は自分に付いているものだという表現に近い。

 

そしてさらに一見謎めいた言葉が続く。『冥想自在とは出入自在のことである。君は あらゆる宇宙を自由自在に出入する。』

これは、第七身体ニルヴァーナに到達して初めて、第六身体以下のすべての世界に出入自在となることを言っていると思う。

 

世間では、とかく下位互換があたりまえになっているから、例えば第四身体(メンタル体)を使えるようになれば、それ以下のアストラル体、エーテル体、肉体が使えるようになるのではないかと推測しがちだが、そうではないようだ。下位互換が成立するのは、ニルヴァーナに至ってからである(OSHOバグワン)。また自由な力には定力が必要。

 

『時間も空間も現象もない君が、時間と空間と現象の中に、あらゆる物語を戯れている。それと同時に、君は君にしかできない生き方で生き切り、そして死んでゆく。』

 

この一節は、自家撞着だが、アートマンとニルヴァーナとの関係のない関係を語る場合には、常にこういう言い方になるものだ。

この『空・冥想自在』節の立場は、見神見仏見性が前提ではなく、究極の悟りニルヴァーナが前提になっている。

 

これで語るべきことはすべて尽くされ、続いてアートマンなる世界全体とニルヴァーナを韻文で歌いあげる。

言葉で語れるものは真実ではないが、嘘という真実。それすらも肯定的に叙述するのが、タントリズムということなのだろう。

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