◎昇りきった龍は落ちるしかない
悟りから見た人間の分類は、人によっていろいろな語られ方がある。OSHOバグワンは、おそらく最も機能的に誰でもわかるように四区分している。
それは、こうだ。
- 固定的な自己イメージをしっかり持っている正常人。自分の自己イメージにしがみついている人。彼らは自分が誰であるかを知っている。
- 流動的な自己イメージを持っている人間。詩人、芸術家、画家、歌手など。彼らは自分が誰であるかを知らない。時には正常で、時には気ちがいになり、時には釈迦の聖なるエクスタシーにも触れる。
- ずっと狂ったままの人間。自分自身から逸脱し、決して自分の家(中心)に戻ってこない。家を持っていることさえ覚えていない。
- 自分自身に中心があり、自分のあるがままに安らいでいる人間。何かになろうとはしない人間。釈迦、イエス、クリシュナなどの聖者。
どうしてそんな区分になるか。軸として自己イメージの有無と「自分が何かを得たり何かになったりしようとする欲望」の二軸がある。
「自分が何かを得たり何かになったりしようとする欲望」とは、人は、ある欲しかったものを得た途端に他を欲しがるからこと。あるいはまた、自分がAになった瞬間に今度はBになりたいと思うこと。
この4区分においては、狂人を除く三者には、自己イメージ(存在、being)がある。そして聖者を除く三者には、何かになろうとする欲望(becoming)がある。
(参照:ヴィギャンバイラブタントラ(1瞑想)OSHO P279-285)
さらに欲望の満足に終わりはないが、その終わりなき欲望の満足ゲームに退屈が襲ってくる時節がある。そんな時ですら、人間には様々な倒錯や、異常なあるいはささやかな気晴らしがあるものだが、中には本当の人生を生きたいと思う人もいる。そこに聖者あるいは神仏に向けた突破口がある。
またこれは、危急の際に、人間心理の奥底が露わになり、いわゆる隙間が見えるのだが、その際に次にどこに向かうかが、この4区分のいずれかになるという説明においても使われる区分でもある。危急の際とは、世の終わりや最後の審判や古神道の大峠のことであり、個人的イベントとしては最愛の人との死別など「隙間」の発生し得るシチュエイションのこと。
広義のマインド・コントロールは、人間の欲望にまつわる心理を操作するものだが、「終わりなき欲望ゲームに退屈しきったり、飽ききったりした人」だけが、悟りに向かっていくという傾向はある。「欲望ゲームを終わらせよう」というスローガンだけで人が悟りに向かうならばこんな時代になってはいない。ネットポルノ依存、アルコール依存、ギャンブル依存、ゲーム依存などそのようなスローガンだけではどうにもならない部分がある。ここ何十年か日本の教育は、自分にあった職業や自己イメージの確立を標榜してきたところがあるが、それもそのような依存の温床になってきた部分もある。
ただし、欲望ゲームに本当に嫌気がささないと人はそれを終わろうとはしない。何事も極まらなければ反転しないのだ。
それは、世界平和においても同様。平和運動、平和キャンペーンで平和が来るなら苦労はない。亢龍悔いありである(昇りきった龍は落ちるしかない。転じて、極まらなければ反転しない。)。