◎選り好みをしない。選択せずに、ただ存在する。
釈迦のいう中道とは、一般に涅槃(ニルヴァーナ)のために役立つ八正道のこと。
そこで、釈迦の中道とは無選択だと言っているのがOSHOバグワン。
人は、生を選んだり死を選んだりする。あるいは愛を選んだり憎を選んだりする。生も死も愛も憎も対立する両端である。
その中間をとる方法を中道と呼ぶ。それは真ん中をとれということだが、言うほどに簡単ではない。
『要は、選択せずに中間にいることだ。中間にこそ真理はある。一方の極には死があり、他方の極には生がある。このふたつの中間に動くこのエネルギーこそが真理だ。 選択してはいけない。 選択とは、一方を他方に対立させて選択することだ。 中間にいるというのは、無選択だということだ。無選択であれば、あなたはそのすべてを去ることができる。なにも選ばなかったら苦悩することはない。
人は選択のせいで苦悩する。 選択せずに、ただ存在するのだ! それは骨が折れる、不可能に見える。だが試してごらん。なにかが互いに対立していたら、その中間にいるよう努めてみる。 そうすれば少しずつ、その勘どころが、その感覚がわかるようになる。そしていったん中間にとどまる感覚がわかったら―――それは微妙なものだ。ごく微妙だ。生の中でもっとも微妙なものだ ―――いったんその感覚を手に入れたら、もう何物にも乱されない、もう何物にも苦しむことがない。もうあなたは苦しみなしで存在する。
それがサニヤスの意味するところだ―――苦しみなしで存在する。だが苦しみなしで存在するためには、選択なしで存在することが必要だ。つまり中間にいることだ。この「つねに中間にいる」という道を、あくまでも意識的に創り出そうとした最初の人間がブッダだ。』
(ヴィギャンバイラブタントラ(2源泉への道)OSHO P149-150から引用)
禅の三祖僧璨(ソウサン。達磨の弟子の慧可の弟子)の信心銘の冒頭にえり好みをしないとあるが、それが無選択のこと。
三祖僧璨は、中風を病み、臨終時は立ったままだった。仏教禁令の時代を片腕のない慧可と過ごした。
無選択とは、足して二で割ったものをチョイスすることでもなく、アウフヘーベンでもなく、選択しないこと、選り好みをしないことだった。
天意、神意を生きるとは、人為や賢(さか)しらという選択肢と天意、神意を生きるという選択肢の二つがあって、天意、神意の側を意図的に選ぶということではなく、選択しないということ。選択しない結果が天意、神意を生きるということなのだろう。