アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

自意識の頂点では英雄の夢は破れる

2025-01-27 19:14:01 | 現代冥想の到達点neo

◎戦争の代わりにオルガズムを

(2021-07-20)

 

ダンテス・ダイジの老子狂言から、若い頃から気に入っている詩。

 

『大志をもて!

 

かつて男にも

大志があった。

地位・名声・権力———

それらは、一種のオルガズムであり得た。

あるいは、知的探求・芸術的創作———

少なくとも幾ばくかの陶酔を与えてくれた。

 

男の性的悦楽なぞ淡いものだ。

だから男は

いつの日か英雄になることを夢見た。

だが、自意識の頂点では、

英雄の夢は破れる———

それは生物学的必然なのだ。

 

破れた夢は、一つの暴力と化す。

戦争はすぐまじかにある。

 

人間を大自然に憩わしめるのは、

オルガズム以外にはない。

 

悟りとは、究極的なオルガズムなのだ。

 

今や文明は終わった。

究極的オルガズムに帰る最適の時だ。

 

女はと言うと、

女は女でなくなった。

現代女性は、男のように自意識的に快楽を求めつつある。

だが、自意識のあるところに全身全霊的オルガズムのあったためしはない。

 

独立した女は、もう奴隷になることができない。

奴隷になれなければ、本当の性的悦楽などありっこない。

慢性的欲求不満の女達は、自分の産んだ子供を愛することもできない。

 

おお、宇宙よ!

女には性的オルガズムを、

男には宇宙的オルガズムを与えたまえ!』

 

先の第二次世界大戦における敗戦は、軍部が悪いとか、フリーメーソンの陰謀だとか、日本の貴族層が策動したとか、国家神道による国民洗脳のせいだとかいろいろのことが言われる。最後は、日本の主要都市は空襲で焼け野原になり、核を落とされて敗戦となった。

 

この詩を読むと、戦争はまさしく、僕たち私たち自身が原因となって起こしている。その発想法、世界的に均質化されたライフスタイル、それを基盤として、70億人をマインド・コントロールしつつ、すべての個人のありとあらゆる欲望を満足させることを是として、地球ロゴスの巨大想念が形成される。

 

万人の全欲望をすべて満足させるなどあり得ないから、『戦争はすぐまじかにあり、戦争を回避するには、万人が冥想によりオルガズムに憩う』しかない。

文明は、一定の年数が経つと、石器時代から核戦争ができるほどに技術が発達し、核戦争を起して元の原始時代に戻り、のサイクルを繰り返すようだ。そのことは、プラトンやマハー・バーラタの核戦争の記述などでも察しがつくものだ。

物証がないというが、現代においてすら、エコの名のもとに土に帰る素材、水に溶ける素材がベターとされ、技術が進化するほど元の原始時代に戻った時には物証は残りにくい方向に発展するものではないだろうか。

そうした物質文明的な巨大な流れは、もう誰も止められやしない。ただ自分のことだけを自分が何とかできる。

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ダンテス・ダイジのホワイト・フォックス

2025-01-27 18:40:03 | 現代冥想の到達点neo

◎だが、おまえもおれなのだ。

(2015-09-19)

 

今日も外国人観光客の人気ナンバーワンの観光スポットは、ホワイト・フォックスの伏見稲荷でござる。

 

そこで、ダンテス・ダイジのホワイト・フォックスの詩。

 

愛も愛情も不安な灰色と化したこの現代に、まだ大金を儲けようという考えから抜け出せない人は、ダンテス・ダイジの歓迎する客ではない。しかしそんな我利我利亡者も彼の一部である。そうした見方は彼のやさしさではあるが、ろくでもない影響を時代に与え続けているという一側面もある・・・・・ダンテスの悪影響。

 

『ホワイト・フォックス

 

ホワイト・フォックス。

おれは、長いこと、

おまえを嫌っていたらしい。

 

女の汚れの中の女。

何一つ見ることのないホワイト・フォックス。

 

おまえの頭は打算だけだ。

フォックス———

だが、

おまえもおれなのだ。

 

666の

黒光りしたクンダリニーとともに

今、

おれはホワイト・フォックスをも飲む・・・

 

白狐。

所詮、おまえの神通力も、

愛の代用品に過ぎない。

 

そして、

いかなる愛も愛情も不安な灰色と化した時、

ホワイト・フォックス 

おまえに一体、

何ができよう。

 

快適で豊富なる暮らしの神。

聖なるマンモン。

白狐。

 

もう、

おれは、

おまえについて、

どんな判断もしやしない!』

(ダンテス・ダイジ/老子狂言からの引用。)

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ダンテス・ダイジのアートマン

2025-01-27 13:12:47 | 【アートマン】【ザ・ジャンプ・アウト-10】neo

◎有相三昧=ウィリアム・ブレイク

(2014-12-25)

 

ダンテス・ダイジのアートマンとは「この一なるもの」であり、

「一切万象、多様次元自身が目覚めている」ことであり、

彼はそれを未公刊の詩集『老子狂言』のウィリアム・ブレイクという詩で表現している。

 

『ウィリアム・ブレイク

 

そうなってゆく

そのままでよいのだ。

人は喜び悲しむために産まれて来たのだ。

 

だが、この絶対者は違う。

絶対者は

喜怒哀楽から離れて、

喜怒哀楽を戯れ、

そしてまったく同時に

喜怒哀楽を超越して

絶対の流れを流れ続ける

 

そして絶対者は、

すべてのすべてで久遠にいませり!

存在と非存在とに何のかかわることもなく。

 

私が絶対者なのだ。

ほんの卵だけれどもね・・・』

(ダンテス・ダイジ/老子狂言から引用)

 

人の視点と絶対者の視点は違うものだ。個人の感傷や倦怠やこだわりなど意に介することもなく、久遠に流れ下る大河の如く、永遠不滅の絶対者は、在る。

 

逝くものはかくの如きか。

 

個は、永遠不壊の絶対者から出るのだが、個であるときは、ちっぽけで卵だと、謙譲こそが基本姿勢であることを忘れない。

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心の底から満足できない

2025-01-27 13:05:49 | 現代冥想の到達点neo

◎決定的根拠

(2007-07-22)

 

エスニックなグルメ、ジャパネスクなグルメ、アヴァンギャルドでキュートなファッション、魅惑的な異性との出会いとメイク・ラブ、異国の旅先で感じるほのかなエキゾチズムなど人の心を惹きつけるものは、この情報あふれる時代で、価値観の多様化した今でも数多いものだ。

 

何があっても心の底から満足しえないことを知っている21世紀初頭の日本人にとって、本当の満足へのメソッドとはこのようなものか。

 

『決定的根拠

 

いかなる根拠もないということが、

これそのものなのだ。

 

理屈と保証がないからこそ

これは久遠の安楽なのだ。

 

喜びもなく苦しみもないからこそ、

あなたは永遠の平安を生きて死ぬ。

 

そして、

あなたは喜びを求めて飛び続ける。

 

ニルヴァーナという妄想

エクスタシーというマーヤ-

それを欲すること-----

これが人間という戯れの正体だ!

 

何もかもなし!

ただただ、これの戯れでない戯れ・・・』

(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)

 

これは人間にとって最後に求めるものが涅槃、タオ、アセンションであることを無意識の前提であることを暴いて見せている。そして、それには何の理屈も保証もない。

ただ最後は坐って、クンダリーニ・ヨーガ型か只管打坐型の冥想を行うことで、この詩を書いた同じ世界(実感ではない)にいることができるはず。

けれどもこの詩の外見は、錬金術文献のような、とりつくしまのない二律背反が並べてある姿。

何の理屈も何の保証もないとは、冥想しさえすれば、だれでも窮極のエクスタシーたる実在(ニルヴァーナ)に出会えたり、実在であることを体感したりすることは保証されないし、そうであることの理論的裏付けなどありはしないということ。

それでも日々冥想を!

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長く読めなかった老子狂言-2

2025-01-27 06:46:42 | 現代冥想の到達点neo

◎何も知らないうちが花なのだ

(2022-01-18)

 

ダンテス・ダイジの未公刊の詩集『老子狂言』の中に、長く読めなかった詩が二篇ある。その二。

 

『すべてを知り尽くす

 

この世とあの世―――

存在と絶対無―――

生と死の秘密を、

すべて知り尽くすことほど、

大きなわざわいはない。

 

何も知らないうちが花なのだ。

それでも、

花はかれ果て、

実になろうと欲する。

 

余りの苦痛にもかかわらず

花は散って、

実を結ぼうとする。

 

私は、なぜそうなっていくのか知らない。』

(ダンテス・ダイジ/老子狂言から引用)

 

大悟した後に彼の人生で出会うすべての人物の顔を事前に見たダンテス・ダイジほどの人物が、

『すべて知り尽くすことほど、大きなわざわいはない。』と言ってみせる。

 

人間や社会や世界の最も醜悪な部分をも知ることほど気が滅入るものはないから、ロマンも叙情もへったくれもなくなる。

 

至福を知るあるいは窮極を知る智慧(般若波羅蜜多)とは、そのような不愉快、面白からざることを知ることという反面がある。そういう実もふたもないことは、冥想修行者のやる気を削ぐのであまり言わないのだが、そういうことなのだろう。

 

リアリズムとは時に露悪だが、自分自身なる神を知るということはそういう面もなければ、悪魔の誘惑を退けられまい。

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長く読めなかった老子狂言-1

2025-01-27 06:35:40 | 現代冥想の到達点neo

◎悟りとは至福のことではなかったのか?

(2022-01-17)

 

ダンテス・ダイジの未公刊の詩集『老子狂言』の中に、長く読めなかった詩が二篇ある。その一。

 

『果てしない旅

 

幸福は、外的な状態に依存してあるのではない。

 

あらゆる方法や修錬によって、

至福を知るのだ。

内面のただ一人だけの充実に向かって、

苦難の果てしのない道を

やみくもに走り続けるのだ。

 

君が君にオーケーと宣言した時が

君の情熱の消える時だ。

そして君は、

灰色の穴ぐらの中に自己満足と

あきらめの日々を暮して死んでいく。

 

ただ量り知れぬ秘められた情熱だけが、

幸福や至福の彼方へ甦える。

 

何と果てしない旅だろう!』

(ダンテス・ダイジ/老子狂言から引用)

 

大悟覚醒して、至福の何たるかを知った後も一個の人間として『灰色の穴ぐらの中に自己満足とあきらめの日々を暮して死んでいく。』

のだとは、ね。

 

なるほど。読めないわけだ。

 

※2025年1月27日追記:いわゆる覚者の二重性の視点を持って読まないと間違える。

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ダンテス・ダイジの老子狂言の歩き方

2025-01-27 03:36:12 | ダンテス・ダイジの風光

◎悟りを持ちながら生きる人間の生きる実感の数々

 

何度目かの老子狂言を通読した。最初に老子狂言を手にしたのは40年ほど前で、8割方は意味が分からず読み飛ばしていたというのが正直なところだった。

 

人間がどう覚醒していくのかということは未だに謎が多いが、最近は、七つの身体、7チャクラ、有の側、死の側、クンダリーニのエネルギーコード、身心脱落、水平の道、垂直の道など冥想十字マップにまつわるキーワードで、悟りに至るメカニズムを知的につかむことができたように思う。

 

そうした目で見れば、老子狂言とは、悟りを持ちながら生きる人間の生きる実感の数々であって、未悟の人向けにそれを率直に親切に説き示してくれているもの。そういう類のものは、なかなかないものだ。

 

老子狂言と言えば、老子道徳経の『名』というカルマを生き切るカルマ・ヨーガで大悟した伊福部隆彦氏がさらに只管打坐で身心脱落したという、今生で2回大悟した稀有な人物の生き方がまず想起される。

一生で2回大悟するのは、常人の成しえる技でなく、一回で充分だと思う。その証拠にインドでは、クンダリーニ・ヨーガでニルヴァーナに到達すれば、もう人間として再生してこない。

40年ほど前、20代後半だった私は、袁了凡的なカルマ・ヨーガを一生をかけてやっていきたいと思っていたのだが、ダンテス・ダイジは、カルマ・ヨーガをやるよりは、冥想専一にやった方が速いとアドバイスをくれた。結局、私は、冥想専一の修行者の道は選ばず、事上磨錬(仕事を精密にやる)でのカルマ・ヨーガの道を主に生きることにしたのだが、そうであっても波乱万丈の人生であることは予言されていた。

そういう経緯があったことで、カルマ・ヨーガで大悟するには、何生もかかるし、ハタ・ヨーギは今生で肉体調整し次の人生で大悟を狙うという話と同様に、カルマ・ヨーガにはいわば「今生での悟るチャンスを不意にする」ような側面もあることは、十分わかっていた。

よって、老子狂言は、カルマ・ヨーガと只管打坐という二種の冥想法を示しているが、老子狂言で想定される人生行路は、人生の初期に只管打坐などで大悟覚醒し、その悟りを持って以後生きていくという生の側から極める道であると思う。

カルマ・ヨーガは、積善陰徳の道であって、一行為一行為で徐々に自分をなくしていこうという事の積み重ねだが、一生を費やしても過去の悪業を解消しきれるかどうかわからないという、生憎な側面もある。

一方およそ人間は、善いことのみを為して悪いことをしないで生きるのが基本。

それを踏まえれば、現代人は、すべからく只管打坐のような水平の悟りを目指す冥想を行うべきであるというのが、老子狂言の示した方向性であって、知性の発達した現代人にとって、水平の悟りを持ちながら生きるというのは、どういう世界観でどういう感慨を持って生きているかを示した稀有な書が老子狂言なのだと思う。そういう情報がなければ、現代人は納得して冥想をやるまいよ。

 

またダンテス・ダイジには、「絶対無の戯れ」という韻文集があり、これも彼の求道の極致の作品集であるが、「老子狂言」は、同じ韻文集ながら水平の道に絞った作品集であるところが違う。

 

「老子狂言」を酔っぱらった詩人のナンセンスな詩句の多い雑な詩集と見る人もいるかもしれないが、人間と神の奥底に触れ続けた本なのである。

 

【老子狂言の目次&リンクス】

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