アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

人のからくり

2025-01-18 20:11:22 | 現代冥想の到達点neo

◎神などと言っているうちは、ぜんぜん楽しくないのである

(2021-12-23)

 

今年も臘月八日の後は、ダンテス・ダイジ忌だった。ダンテス・ダイジ自身も存命ならば70代。彼に面識のある者もその年代周辺であって、社会的にはOBとなり、あまり影響力はなくなったと見られる。

 

ダンテス・ダイジの教えで特徴的なのは、真理の社会性を相対的なものと見、いわばおひとり様宗教もありだと示したこと。覚者が必ずしも人格者や好々爺ではないことを示したこと。覚者の非社会性をことさらに強調して見せたこと。

 

こうした真理自体の許容度を広げて見せた結果、一生を棒に振ったり、社会に迷惑をかける邪教がはびこったりというのは「ダンテスの悪影響」と称される。ダンテス・ダイジという覚者と直接の面識がなくとも、七つの身体論という人間像の相対化、あらゆる世界観の相対化、ひいては近代西欧文明の崩壊とその後の姿のビジョン、さらに出口王仁三郎の云う「奥の奥には奥がある」という勢力をもイメージさせるには十分だったのではないか。

 

ダンテス・ダイジ未公刊の詩集老子狂言から、下の「人のからくり」を引用。この詩が本当だからといって、その人間像にこだわっているわけではないが、どの立ち位置で語っているかを見るべきだろう。

 

『人のからくり

 

肉体——→エーテル体

エクトプラズムは、エーテル体の流出のことであり、肉体とエーテル体は、死とともに崩壊する。

エーテル体は、漢方医学の無数の経絡に相当する。

 

アストラル体

7つ、あるいは10個の光輝くチャクラからなりたつ死後にも一定期間存続する本人と相似している光明体である。

 

霊体(メンタル体)

人間の最初にして最後の個性であり、永遠不滅の実相身である。

各人各様の形象をとっていて、一定の型を持っていない。原型イデアである。

キリスト・ブッダ・クリシュナ等の霊体は絶対無・絶対光・変幻自在である。

 

善人においては、そのイデア相応の最高の美的形象をとった人間的な形を持っている。

悪人においても、その裏返しとしての最高の形を持っている。

サタン・ルシファー・悪魔などの霊体は絶対無それ自身で完結している絶対の暗黒・そして変幻自在の形象を取り得る。そのイデアは鉱物に近いといってよいだろう。

 

神の化身としてのアヴァタラと、悪魔の化身としてのサタンの実相身は、そのイデアの面から見れば、他のあらゆる人々との霊体と同様に絶対的な原型であることに違いはないが、

神の化身は、悪魔をも包むことができるが、悪魔の化身は、神以外のすべてに変容することができても、神・絶対全体にだけは成ることができない。

 

もっとも神も凡人も悪魔も、たいした差のありようはずもない。

神・すべてのすべて

そういうわけで、

神などと言っているうちは、ぜんぜん楽しくないのである。』

 

※2024年1月18日追記:

霊体(メンタル体)として説明している部分は、『人間の最初にして最後の個性であり、永遠不滅の実相身である。』ならば、コーザル体のことではないのだろうか。

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ディヤン・スートラの七つの段階-7

2025-01-18 06:58:46 | 冥想アヴァンギャルドneo

◎感情の浄化-4 感謝

(2021-11-13)

 

感情が純粋になれる4つの局面の4番目は、感謝。

 

感謝とは神性である。OSHOバグワンは、「誕生に際して、あなたは意識的なはたらきかけをしたわけではない。誕生は自分自身の決定ではなかった。」と前置きをする。

 

そして、我が肉体を感謝できない人は他人の肉体に感謝できはしない。人は、まず自分を作った空と大地に感謝しなさい。これを神聖なる感謝とよぶ。

 

『この感謝なくして宗教的にはなれない。感謝しない人間が、どうして宗教的になれるだろう?

この感謝を絶えず体験し始めたら、あなたは驚くだろう-この感謝はあなたを大いなる安らぎに満たし、大いなる神秘に満たす。するとあなたは、あることを理解する-自分は、こうしたすべてを与えられるに値しないということを。しかし、これらすべてを手にしているがゆえに、自分は感謝の念に満たされるということを。自分の受け取ったものが満足を与えてくれるので、あなたは感謝に満たされる。』(ディヤン・スートラ―瞑想の道/OSHO P179から引用)

 

そこで、感謝を表現し、感謝を育てる方法を見つけなさい。それにより、冥想は深まり人生は途方もなく変化すると。

 

彼は、友愛、慈悲、快活さ、感謝の四つで感情は浄化され、純粋化されるとした。

 

この要約では、この四局面のネガティブ部分の説明は故意に避けた。ネガティブ部分を説明しても解決の方途は見えないからである。

 

友愛は集まれば大きな力として作用するが、友愛のネガティブ部分である憎しみもまた大きな力として作用する。例えば、ナチスドイツは、ユダヤ人への憎しみを煽り、ユダヤ人圧迫、大虐殺を実現し得た。日本の隣国は反日思想で日本人への憎しみを煽っているが、時代はめぐり一朝日本人が腰抜けで抵抗できないとわかれば、ユダヤ人同様の悲劇を起し得る「憎しみ」の火種を教育・宣伝し続けているということである。

 

このようなネガティブ面(憎しみ・敵意、冷酷さ・暴力・不親切、惨めさ・苦悩・不安、恩知らず)の説明は、この書に多数載っているが、この地獄的時代には身近に実例はいくらでも思い当たるだろう。

 

よって、改めて感謝を表現し、感謝を育てる方法を見つけなさいなど、簡単にできることからスタートするのが如何に大切かに思い当たることだろう。

 

 諸悪莫作、衆善奉行(悪いことをしない、善いことをする)。

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現代人は、その知性ゆえに誰もかれも死の安らぎを願っている

2025-01-18 06:28:10 | ダンテス・ダイジの風光

◎欲望は、充足と苦悩というゲームの作り手なのだ

 

ダンテス・ダイジの老子狂言は、巻頭に格言1が置かれ、老子狂言全体の意義の説明をしているのだが、ここに紹介するのは、格言2。老子狂言を最初に手にした時は、単なるアフォリズム集か、風狂の覚者の片言隻句というのはこういうものかという程度で、およそ何もわかっちゃいなかった。

海外から戻ってきて、20年前にブログを始めて精神世界に関する理解が徐々に深まる中で、生の側から極める代表格が只管打坐であり、道元であり、老子であり、クリシュナムルティであることを知り、老子も改めて全文読んでみた。確かにダンテス・ダイジが老子の生まれ変わりと見た伊福部隆彦は、中年まで細君と不仲だったが、さるきっかけで老子的大悟をする。だがある日伊福部隆彦氏が、釈迦と背比べをしたら、自分の足は釈迦の胸のあたりでばたばたしているのに、釈迦の足ははるか地獄の底まで届いているらしく、全然底が見えなかったという逸話があり、生の側から窮めるといのはそういうことかという、妙な納得の仕方をしていた。

老子道徳経には、確かにスピリチュアルな段もあるが、決して多くはない。ただし、水平の悟りあるいは生の側から極めるといっても悟りそのものを比喩する場合、どうしっても神秘的な表現になることはやむをえないのだと思う。

 

『格言2

 

感情とそれからにじみ出す想像力は、欲望として以外にありえぬ個生命—人間にとって実に巨大な力を与えていた。

アトランテス文明の黄金時代は、人類の感情・想像・記憶を司さどるアストラル・パワーの開花の時だといってよい。

 

自我意識、合理的理性が今だ発達していないアトランテス人種は、合理的科学法則とはまったく異質の多くの夢を現実化することができた。しかし、人類の進化は、そこでとどまることをゆるさない。あらゆる個生命は、欲念を原動力として流動転変せざるを得ないからである。欲念相続には、完全満足なる到達点はあり得ないことは言うまでもないだろう。

 

欲望は欲望を滅尽させるために欲望としてある。欲望は、充足と苦悩というゲームの作り手なのだ。

現代西洋文明の合理的理性から見た仮説としての人間観から人間進化を位置づけてみよう。

そうするとレムリア人種は、意欲人間、アトランテス人種は、感情人間、現代西洋人種は、知性人間ということになろう。現代西洋人種とは、地理上の西洋・東洋を意味するのではなく、紀元前3120年以後の人類全体のことである。

 

現代西洋商工業都市文明の私達人類は、知性を中心として人間性の統合を果たさねばならない。ウサンクサイ、まやかしのオカルティズムや、単純な自然回帰という退行的願望や、センチメンタルな意味での愛情や友情やカウンター・カルチャーに逃げ込むことなぞできはしないのだ。

 

だからこう言える。20世紀末の現代人は、その知性ゆえに誰もかれも死の安らぎを願っているのだと。これは決して暴論ではない。花が花としての限界に来たとき、実が出てこざるをえない。それは、花にとっての絶体絶命の闇である以外になく、実にとっては新しい未知なる光明への第一歩なのだ。

 

もっとも、知性・理性・自我の虚無ゆえに肉体的な意味で死んだとしても、そこに本当のやすらぎなぞありはしない。それは、肉体的に死んでみたら納得できることだろう。

 

どうやら、欲念相続としての現代人類は、知性理性を「知恵」にまで進化させ、全人的統合を果たさねばならぬらしい。それも、いかなるルールも方法も保証もなしで・・・

私は私に直面しよう、知性を英知に変容せしめる何ものかを。

あなたはあなたに直面しよう、理性を知恵に変容せしめるサムシングを。

 

なぜなら

欲望の遊戯に終りはないだろうから

なぜなら

マーヤーのゲームに果てはないだろうから』

(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)

 

人間の進化という観点で見れば、レムリア人は意欲人、アトランティス人は感情人。アトランティス人は、月ルナで象徴される感情パワー(アストラル・パワー)で、世界の全動力をまかなうツーオイ石を発明し、半重力装置でギザのピラミッドを積み上げるというテクノロジーを有していたが、現代科学では想像もつかないメカニズムのものだったのだろう。

 

一方現代人は、知性人であり、その知性ゆえに誰もかれも死の安らぎを願っている。その仕組みは、欲望は、充足と苦悩というゲームの作り手であって、そこでの抑圧をジャンプ台として、欲望自体を滅尽するまで自我を極大化して、何かが起こるまで進む。

そこで大悟覚醒、道(タオ)、身心脱落が起こるのだが、その極点から再び再生して人間として生きる。禅の十牛図ならこれを入鄽垂手(にってんすいしゅ)と呼ぶ。この生き方が老子狂言なのだ。

生の側から極めれば、死の側もクリアできるので、必要に応じて超能力・霊能力も使えるが、それがメインではない。よって老子狂言にもオカルチックな、神秘生理学な描写が時々ある。

 

いかなるルールも方法も保証もなく冥想に取り組み、私は私に直面すれば、サムシングが起こるかもしれない。起こっているが気が付いていないだけかもしれない。

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