◎感情からの自由とサマーディ
(2021-11-23)
思考の観察から一歩進んで感情の観察もできる。最後には純粋な観察者を目指す。この「見ていること」を意識と呼び、英知と呼ぶ。
OSHOバグワンは、ここで予想どおりあるいはいつものパターンで、感情の観察については詳述していない。せいぜい思考の観察と同様に感情を見守るのだくらいの説明である。
ここで無身体、無思考、感情からの自由の三つの“空”が成り、これによってサマーディに進むとする。だがサマーディとは個なのか全体なのか、何がどう素晴らしいのかなどについてはほとんど説明がない。
続く質疑の章に次のような暗示するものはあるが、サマーディの説明がちゃんとしていないのは、聴衆のレベルがあったのだろう。
『そう、あなたが神性の探求に乗り出すときは、「わたしは神性を見つけるつもりだ」という思いから始める。しかし探求を続けるうちに、神性はどこにも見当たらず、探求者も消えつつあることに気づく。「わたし」が完全に空っぽになる時が訪れる瞬間、あなたは自分が神性を見出したことを発見する。
つまり、「わたし」は決して神性に出会わないということだ。「わたし」がいないとき、そのときはじめて神性はある。しかし「わたし」がいるかぎり、神性は決して見つからない。』
(ディヤン・スートラ―瞑想の道/OSHO P280から引用)
ディヤン・スートラは、尻切れとんぼのようではあるが、彼独自の心理テクニックが至るところに盛られており、いつもの原始仏教や禅、チベット密教、インド密教、ウパニシャッドなどを題材にした講話とは異なる風光を見せている。自分の体験から来る教訓が見えるのだ。その意味でディヤン・スートラは貴重である。