アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

ディヤン・スートラの七つの段階-10

2025-01-22 05:59:09 | 冥想アヴァンギャルドneo

◎感情からの自由とサマーディ
(2021-11-23)

思考の観察から一歩進んで感情の観察もできる。最後には純粋な観察者を目指す。この「見ていること」を意識と呼び、英知と呼ぶ。

OSHOバグワンは、ここで予想どおりあるいはいつものパターンで、感情の観察については詳述していない。せいぜい思考の観察と同様に感情を見守るのだくらいの説明である。

ここで無身体、無思考、感情からの自由の三つの“空”が成り、これによってサマーディに進むとする。だがサマーディとは個なのか全体なのか、何がどう素晴らしいのかなどについてはほとんど説明がない。

続く質疑の章に次のような暗示するものはあるが、サマーディの説明がちゃんとしていないのは、聴衆のレベルがあったのだろう。
『そう、あなたが神性の探求に乗り出すときは、「わたしは神性を見つけるつもりだ」という思いから始める。しかし探求を続けるうちに、神性はどこにも見当たらず、探求者も消えつつあることに気づく。「わたし」が完全に空っぽになる時が訪れる瞬間、あなたは自分が神性を見出したことを発見する。

つまり、「わたし」は決して神性に出会わないということだ。「わたし」がいないとき、そのときはじめて神性はある。しかし「わたし」がいるかぎり、神性は決して見つからない。』
(ディヤン・スートラ―瞑想の道/OSHO P280から引用)

ディヤン・スートラは、尻切れとんぼのようではあるが、彼独自の心理テクニックが至るところに盛られており、いつもの原始仏教や禅、チベット密教、インド密教、ウパニシャッドなどを題材にした講話とは異なる風光を見せている。自分の体験から来る教訓が見えるのだ。その意味でディヤン・スートラは貴重である。

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OSHOバグワンのヨーガ・スートラ解説4-30、4-31

2025-01-22 03:58:43 | 覚醒のアーキテクチャー

◎心を通じて得られる知識は、悟りを通じて得られる知識に比べて非常に少ない

 

心を通じて得られる知識とは、未悟の人がいわばスポットライトを当てた部分の知識のことであって、悟って宇宙全体が自分と合一すれば、宇宙全体がスポットライトを当てたように知ることのできる知識というようなところか。知識に絞ればそういう話なのだろう。

 

ヨーガ・スートラ4-30、4-31の本文(ゴシック体)とOSHOバグワンの解説。

(OSHOバグワンのYoga: The Alpha and the Omega, Vol 10 P139-)

(仮訳)

【次に、苦しみとカルマからの解放が続きます。心を通じて知ることができるものは、悟りによって得られる無限の知識に比べて非常に少ないです。悟りの中で、ベール、歪み、不純物が取り除かれるとき。】

 

ほんの数スートラ前に、パタンジャリは心が無限に知識を持ち、心は無限に知ることができると言いました。今、彼は心を通じて知ることができるものは、悟りによって得られる無限の知識に比べて非常に少ないと言います。 高く進むにつれて、各状態はあなたが超越した最初の状態よりも大きくなります。

感覚に迷っているとき、心は不完全に機能します。感覚に迷わず、体に執着しなくなると、心は完全に健康な状態で機能し始めます。心には無限の理解が起こり、無限を知ることができるようになります。

しかし、それも心が完全に取り除かれ、心なしで機能し始めるときに比べれば何でもありません。今や媒介は必要ありません。すべての車輪が消え、あなたは現実に直接触れます。心さえも仲介者として存在しません。何も間にありません。あなたと現実は一つです。心を通じて得られる知識は、悟りを通じて得られる知識に比べれば何でもありません。』

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