◎感情の浄化-3 快活さ
(2021-11-12)
感情が純粋になれる4つの局面の3番目は、快活さ。
これは、喜び、幸福、歓喜、至福の感覚、そして苦悩の不在だ。これは、普通の人の考える快活さではなく、肉体死を既に問題にしない人の快活さである。
毒杯をあおったソクラテスの言葉、『そして彼は言った。「わたしは幸せだ。死は、たったふたつのことしかできない— 完全にわたしを破壊するか、しないかだ— もし死がわたしを完全に破壊するなら、わたしは幸せだ。なぜなら、悲しみを体験するわたしはそこにいないのだから。
また、もしわたしの一部が残るとしたら、わたしは幸せだ。なぜなら、破壊されるのはわたしでない部分だからだ。わたしは依然として存続する。死は、たったふたつのことしかできない。だからわたしは笑っているのだ」。』(ディヤン・スートラ―瞑想の道/OSHO P170から引用)
肉体死か、個我・個なる自己の喪失かと問うているのだ。肉体死は、大悟覚醒につながるケースが少ないことを前提にしている。
さらに処刑場で四肢を寸断されたマンスールの言葉。
『わたしの愛に終りはない。この人々がわたしに何をしようと、わたしの愛の破壊には成功しなかった。彼らは自分たちの企てを成し遂げられなかった。この愛は永遠だ』(上掲書P171から引用)
その時ですら彼は笑っていた。
OSHOバグワンは、生の明るい側面を見ることを習慣づけることで、快活になれるとする。ヨブ記のヨブみたいなひどいめに会わされ続けても、神を信じ、我が運命を呪わず、愛を持ち続けることを快活というのだろう。これまた悟った人の特徴ではあるが、まだ悟っていない人は、真似びから入るしかないのだろう。