◎体験ではない体験それ自身を再体験
(2021-10-20)
このブログでは、人間から見た究極の体験を「体験とはいえない体験」と呼んで多用している。
そのoriginが、ダンテス・ダイジの未公刊の詩集「老子狂言」のメシアン・ハンドブックという詩にある。
『メシアン・ハンドブック
救世主は知っている
いかなる人であっても
自分を神の子だと考えるのは
もっともなことだと
健康と病気
豊富と貧困
解放と束縛
これらを受け入れるかどうか
決めるのは君達だ
パッと手を離したらいい
あとのことは
流れがやってくれている
君達に命ずる
これからずっと幸福でいなさい
思い出してごらん
すでに君は
死んだことがあるんだよ
立派な救世主は
自由に行きたい道を行く
できないことは
できない
救世主でいるくらいなら
手品師か催眠術師のほうがましだ
君は
つねに神でいることはできない
だが、
素直でいようとすることはできる
知るべし
君は何もできはしない
春夏秋冬があるように
あたりまえでいる・・・
これが救世主の極意だ
よう君
いい役
演じてるじゃねえか!
決して
情熱をやめないこと
情熱なんぞどうでもいいなぞと
カタイことは言わないでくれたまえ
何ものかへの情熱こそ
世界を世界にしているのだから
君は
あらゆるものとともに死ぬ
君も世界も
もともとありもしないここに
あらゆるものが戯れている
いうなれば
君達は
体験ではない体験
それ自身を
再体験しようとしている』
(ダンテス・ダイジ/老子狂言から引用)
これを見ると「体験とはいえない体験」ではなくて「体験ではない体験」だったようだ。しかしながら「体験ではない体験」では、唐突であり他の文脈で使うには使いづらいかも。
人は自我の死に際し、あらゆるものとともに死ぬのだが、そこで自分も世界ももともとありもしないここにあらゆるものが戯れていることに気づく。
そこで人は、体験する者と体験それ自体が合一して「体験ではない体験」となったそれ自身を再体験しようとしているのだ。
※2025年1月28日追記:
上掲『君達に命ずる
これからずっと幸福でいなさい
思い出してごらん
すでに君は
死んだことがあるんだよ』の死とは、タオでありニルヴァーナである。隙間理論でいえば、現象と現象の間の隙間がタオであり、呼吸の合間がニルヴァーナである。