アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

言わずして大道に帰する

2025-01-29 21:08:42 | 老子neo

◎老子第34章 大道汎兮

(2006-03-02)

 

老子の中には、人間という視点が全くないものが時々ある。この一篇もそうである。使われている言葉は、自分が作ったとは言わない、そして主人顔をしないなどというものだが、書かれていることは、個人という人間や人間という心理は全く顧慮されていない。

ここで老子は、タオ・道に成りきって、その属性を語っている。

限りない夢と真実の裏側に常にひそむ「何物か」は、この世のどこにでも遍満しているけれども、自分勝手な奴ではなかった。

 

『道は天下に普く 満ちわたっていて、右にでも左にでも何処にでも見出される。

万物すべてこの道を恃んで生じるけれども、しかも彼は決してこれを辞するということがない。そして功成っても自分が為したと主張しない。

彼はすべてものを養い育てる。けれども決してそれの主人顔をしない。実に常になんの要求も持っていないのだ。まことに小というべしではないか。

しかも万物は言わずして彼に帰する。だのに彼はその主人顔を為さない。実に大と名付くべきではないか。

だから聖人は、いつでもついに自らを大としないのである。だからこそ彼は何時でもその大を為すのである。』

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玄徳-道そのものの徳

2025-01-29 21:06:56 | 老子neo

◎老子第10章 載営魄

(2010-11-13)

 

『私たちはよく、その身体の上にその精神的欲望を司る魂と感覚的欲望を司る魄との二つともを、たちまち守りながら、しかも道の発動現成にあたって、道から離れずに生きてゆけるか。

この自分の中にある生々の原動力、無意識的生本能そのものの発動のままに生きることを専らにし、自分の欲望的意識は、極力これを抑えて発動せしめず、ちょうどあの赤ん坊のように生きることができるか。

民を愛し、国を治めるにあたって能く無為たることができるか。天門の治乱興亡の諸事件、諸現象にあたって、自分の力で自由にすることができることを知りながら、よくそれをしないで、人為的発動をしないで、無為を守っていることができるか。あらゆる方面において聡明でありながら、しかも能く知なきが如くしていることができるか。

道は万物を生じ、万物を畜っているが、しかもこれを生じさせても自分のものとしない。またすべてのそれらのことを自分が為したからといってそれらのものに対して何の期待も持たず、要求も持たない。又それらを長じさせ、養うたからとって、自分がそれを主宰しようとしない。これを玄徳(道そのものの体現であるところの聖人の持つところの徳)という。』

 

道を発動現成するという立場にあっては、自分と道の区別は、もはやない。ともすれば、肉体側、物質側であるところの「魄」寄りに動きたがるところを、能動的にコントロールする必要があるとする。

その必要があるのは、少なくとも一度は道を見た人間であって、仏教でいうならば菩薩のことである。つまり菩薩として生きる場合のテーマがここにある。

仏教では諸悪莫作 衆善奉行を道(真理)を知る人の生きる姿であるというが、老子ではその生き方を一言で玄徳(道そのものの体現であるところの聖人の持つところの徳)と称す。

 

今更ながらであるが、道を一瞥しても、道を体現した生き方が簡単ではないことが知られる。

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之に及ぶもの希(まれ)なり

2025-01-29 21:05:06 | 老子neo

◎老子第43章 天下之至柔

(2008-09-08)

 

『この世で最も柔弱なものが却って最も剛強なものを自由にする。

形のないものは、隙間のないところへも入れる。

だから私は、無の作用の大きな意義を知るのだ。この天地の言わずしてあらわれる教と無のはたらきの大きな意義と、これに及ぶ偉大なものは、この世の中にない。』

 

この世で最も柔弱なものが、最も剛強なものとしてあらわれている。もとより一定の形のないものであるから、隙間のないところへも入れる。

この道とは何者か。それを見るためには、人間の果てまで行き着いてみなければならない。これ以上偉大なものはないと言いきるところに、それを確証した老子の立ち位置の至高であることがわかる。

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中国という現実感覚

2025-01-29 07:34:49 | 時代のおわりneo

◎大観園の解剖=戦前の中国のアヘン窟

(2015-10-22)

 

日本では上水道が行き渡り、山中などよほどの不便なところでない限りは、手汲みの井戸にお目にかかることはなくなった。

 

私の少ない経験で言えば、水の悪い中国での生活に対して、昭和10年代の生まれくらいの人まではあまり抵抗がなかったように記憶している。水事情が悪ければ、風呂もシャワーもなかなか浴びれない。

 

明治や大正の人は、中国に留学し、中国語の舌の訓練が要る発音と「礼節」を学んだ人がいたものだが、彼らにさほどの中国での生活に違和感があったことは聞かない。中国での生活をやや不便と感じこそすれ、そこでの生活に耐えられないとまで思うことはなかったのではないか。

 

そうしたやや慣れた日本人であっても、中国人の徹底した虚無に近い部分の人生観に暗澹とし、また驚異の眼を見張るケースが時にあったようだ。

 

『大観園の解剖/佐藤慎一郎/原書房』は、そうした最もディープな中国人の生態と哲学と人生観に焦点を当てている。大観園は、戦前の旧満州ハルビンにあったアヘン窟。ここで中国人は、アヘン吸飲に終日を充て、アヘン購入を繰り返すため、やがて金も尽き、飢えと麻痺で最後は路傍に死体として捨てられる。

 

死体は大方衣服をはぎ取られ、寒中に真っ裸であり、その衣服はたちまち売られ、取得した者のおこづかいになる。日本におけるような死者への「仏」に対する尊崇などかけらもない。

 

中国人は本能的であり、人間より動物に近い。その国土では永久に飢饉が繰り返される。これに対し、日本では、本能を脱却することが人間の理性の発露であることを誰もが自然に理解し行動のベクトルはそちらに向かおうとする。日本でも飢餓の時期はないことはないが、その都度少ないものを分け与えて清貧に暮らすことを恥じない民族の知恵がある。

 

大観園では、瀕死の病人(アヘン中毒者)の衣服を生きているうちに剥いで金にする。衣服は金になり、宿で死なれては他の宿泊者が迷惑するからだそうだ。裸で病人を街頭に置けば凍死するのだが、中国人はそれを自業自得だとし、同情すらしない。

 

こうした個人主義の極みについて中国人は、「誰不管誰」(人のことは人のこと)言い、隣家に盗賊が来ても構いやしないという、ものすごい通念があることで説明する。

 

中国共産党だってたかだか略100年の歴史だが、漢民族は4千年こうやって生きてきた部分がある。これでは、孔子の儒教が大いに必要とされるわけだと思う。道教から出てきた功過格がどこか上滑りなままで終わっているのもわかる。

 

中国の風土、社会、伝統の下では、このように最低限の人間の尊厳すら簡単に侵されるのであるから、甘ちゃんで苦労なく育った今の若い日本人には、漢民族あるいは中国人の本質というのは、ますます想像もできない人間像なのだと思う。

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OSHOバグワンのソーマ・ヨーガの見方-2

2025-01-29 07:22:20 | 冥想いろいろ

◎問題はソーマではなく、本人の準備ができているかどうか。

 

悟り薬、それは一回服用すればニルヴァーナに到達できる薬であって、まるで一かけらを鉛に投入したけで全体が黄金に変成する賢者の石のような薬。それが実際にあれば、ニルヴァーナに入りっぱなしで、ラーマクリシュナのように横になったきりで何日も過ごすような人が続々と出るのではないか。そのようにニルヴァーナの至福感は強烈なのだろう。

ただしニルヴァーナに入りっぱなしというのは、よさげに聞こえるが、ダンテス・ダイジは、そのような状態には否定的だった。実際ラーマクリシュナ(バクティ・ヨーガの覚者)は、数日その姿勢のままなので侍者が口に水を含ませたりなど世話が必要だったようだ。

以下の文では、ドラッグの効果は、現実(ニルヴァーナという意味)に到達できず、幻覚に過ぎないとし、薬物の効果は必ず切れるので、その時冥想しなさいと示している。薬を服用しただけでは悟れないのだ。

そうした非常に科学的な方法で、インドでは過去何万年、ヒンドゥー教のすべての流派がドラッグを使用し続けてきたのだろう。

インドの街頭にコブラ使いがいるのは、リグヴェーダ以来のソーマ・ヨーガの伝統だったわけだ。

まずは、本人の成熟、そしてドン・ファン・マトゥスのような正師との出会いが必要。

これは、旧満州のアヘン窟やアメリカ大都市のフェンタニル依存者あふれる様子とは大分違う。

 

OSHOバグワンがソーマ使用に反対している意見の続き。

『(OSHOバグワンのThe Last Testament, Vol 4 Chapter #6の一部を仮訳)

そして私自身の理解としては、これらの人々も瞑想を試みたのは、ドラッグがある時点で無効になるからだ。免疫がつくのだ。最初は途方もない体験をもたらすが、やがてそれはほとんど体の化学反応の一部となる。それを摂取しないと困難に陥る。体の全てがそれを求めるようになる。摂取しても何も得られない。服用量を増やし続けるだけだ。

インドでは、ドラッグの実験が最も古いものであるはずで、なぜなら世界最古の聖典はリグ・ヴェーダであり、ヒンドゥー教徒の宗教的な源であるからだ。リグ・ヴェーダはソムラスと呼ばれる特定の薬物について言及している。このソムラスのため、オルダス・ハクスリーは、LSDが精製され、 副作用がない究極の薬物が現れた時、それを「ソーマ」と呼ぶだろうと述べた。

名前はリグ・ヴェーダに由来している。 リグ・ヴェーダはヒンドゥー教徒によれば九万年前のものであり、これが間違いだと証明できた人はいない。その古さを証明する議論はほとんど反駁不可能だからだ。それらは論理的ではなく、そうでなければ簡単だろうが、天文学的なのだ。

リグ・ヴェーダには現代の天文学者によれば九万年前に起こった星の特定の組み合わせの記述がある。リグ・ヴェーダを書いていた人々がそれを詳細に記述できる方法は、それを見たことがない限り、ない。 これはどうすることもできない証拠だ。その組み合わせは九万年間再び天空に現れていないという天文学者たちの発言。このため、その当時それを完全に理解していた人々によって書かれたのだろう。 九万年間、ヒンドゥー教徒は薬物を宗教儀式の一部としてほぼ受け入れてきた。

イギリスの統治下で初めて、ドラッグが問題を引き起こしたが、これは宗教的儀式の一部であり、世界で最も古い宗教であったため、イギリス政府も干渉することを恐れた。それでも続いた。

私が子供の頃でも、ドラッグは市場で手に入れることができた。違法性の問題もなかった。ヒンドゥー教のすべての流派がドラッグを使用していたが、それを非常に科学的な方法で使用していた。

特定の量のドラッグを投与し、人に特定の体験をさせ、それからその体験が終わった後に「これはただの錯覚でした。それはドラッグの影響、つまり化学反応によるものです」と説明するのだ。

現実の中で体験してみたいですか? もし幻覚がこんなに素晴らしいのなら、現実がどれだけすごいか考えてみてください。ドラッグによって作られた体験は数時間しか続かず、再び同じ古い腐った世界に戻ってきます。

でも、もしその体験が本物なら、それは永遠にあなたのものです。決して失うことはありません。それはあなたに起こったものではなく、もともとあなたの中にあったものです。それを発見したのです。

だから私は、この方法でドラッグを使用することが間違っているとは思いません。実際、これが現代の人々にとって世界中で取り入れるべきアプローチだと思います。

(中略)

適切な指導--医学的、瞑想的--の下で、薬は大いに役立つことがあります。 薬物が中毒性を持つと、自己への旅において最も破壊的なものになるため、私は薬物に反対しています。その結果、幻覚に魅了されます。そして、それは手間がかからないので、人々は大きな用量をますます取るだけで済むため、安易に進みます。

インドでは、ある時点に達しました.... 今日でも、寺院では毒蛇を飼っています。というのも、人々があらゆる種類の薬物に中毒し、それらの薬物が彼らには全く効果がなかったからです。どんな用量を取っても、彼らは正常の状態を保っています。唯一少しの体験を得るためには、コブラの舌に噛まれることです。それは誰にとっても致命的ですが、彼らにとっては美しい薬物体験です。』

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