◎ジェイド・タブレット-07-11
◎天国まで-11
◎人に知られない
隠修士パウロスは、3世紀頃の人物。西洋絵画展に行くとよく目にする「聖アントニウスの誘惑」で知られるアントニウスが、パウロスが砂漠に隠れてから60年目に彼を発見した人物として知られる。
パウロスは、テーベに生まれ、キリスト教徒に加えられる拷問の数々を見て、砂漠に隠れて修行することを選んだ。町で暮らして発覚すれば、拷問と死が待っているからには、当然の選択の一つである。キリスト教のテキストを見れば、殉教が人生上の主要選択肢の一つだったと考えられていた時代が初期にはあった。ところが、生活しながら信仰を維持し深めていく立場からすれば、準備ができないまま殉教すれば、殉教時に覚醒できればよいが、できなければ、もう一度輪廻転生して人生やり直して冥想修行のし直しということになる。(キリスト教では輪廻転生は認めていないが。)
イエスですら、十字架にかかるまで大悟できなかったことを思えば、殉教しさえすれば大悟できるということは厳しく見れば思い込みに過ぎない部分はあるのではないか。
よって、中国唐代の破仏(仏教弾圧)の時代、力のある禅僧が山に隠れて修行したように、初期のキリスト者であるパウロスが、水と食物の入手できる砂漠地帯の奥深い小オアシスのような場所に隠れて、60年修行したということはあることではある。そこは結界されて発見できない場所であったのではないか。
同時代の聖アントニウスが、「眠り」の中で、もう一人立派な砂漠の隠修士がいることを知り、パウロスに会いに行った。これは常人にとっては「眠り」だが、聖アントニウスにとっては、とある冥想状態であったのだと思う。
パウロスは、心眼によって事前に聖アントニウスの来訪を知ったのだが、これなどは王陽明もできたのであって、それしきで驚いてはいけないと思う。
60年間人に会わず冥想修行を継続するというのは、これぞ御神業であって、そういう人はいるものだが、何をやっていたのかは明かされることがないが、カトリックの見る目のある人は高く評価してきたのだ。
パウロスは、60年間、禁欲と観想という天国の側を窮めることに専念して神を求めたのだ。