◎キリスト教では「自分は罪人だ」から始まる
西洋には高粱一炊の夢のような一生を夢で見て虚無を感じ求道に入るというタイプの寓話がない。これは、キリスト教の神へのアプローチの第一歩が「自分は罪人だ」という自分に対するネガティブ方向への自覚から始まっているせいなのだろうと思う。「自分は罪人だ」「自分は罪人だ」と繰り返すことで、自意識に対する圧力をかけ続け、その圧力が極点に達したところで破裂させ、神人合一に至らせる。キリストの求道プロセスの根幹はそういうところではないだろうか。だからゾイゼみたいに肉体を苛める苦行まである。
現代人のように一生をライフ・プランでシミュレーションして、最後に死ですべてを失うという、一生全体の虚無性を人生の最初に見せてしまえば、もっと自然に冥想修行に入って行ける。一方「自分は罪人だ」から始まるアプローチはとても苦しくつらいので、もっと自然な入り方を知ればそちらの方に流れがちなので、キリスト教は、槿花一朝の夢のような観じ方を封じたのだろう。
よって西洋では人生の虚無性の表現は、単発で出てくる。
1.シェイクスピアの「マクベス」では、主人公マクベスが、夫人の死去の知らせを受け、
「人の生涯は動きまわる影にすぎぬ。 あわれな役者だ。
明日、また明日、また明日と、時は
小きざみな足どりで一日一日を歩み、
ついには歴史の最後の一瞬にたどりつく、
昨日という日はすべて愚かな人間が塵(ちり)と化す
死への道を照らしてきた。
消えろ、消えろ、 つかの間の燈火(ともしび)!
人生は歩きまわる影法師、あわれな役者だ、
舞台の上でおおげさにみえをきっても
出場が終われば消えてしまう。
白痴のしゃべる 物語だ、
わめき立てる響きと怒りはすさまじいが、
意味はなに一つありはしない。」
2.シェイクスピアの「テンペスト」ではプロスペローが
「この地上に在るー切のものは、結局は溶け去って、
いま消え失せた幻影と同様に、
あとには一片の浮雲も残りはしない。
我々人間は、夢と同じもので織りなされている。
はかない一生の仕上げをするのは、眠りなのだ。」
3.ギリシャ神話の「シーシュポスの神話」では、シーシュポスは、永遠に岩を山の頂上まで運び続ける罰を受けるが、岩は毎回頂上から転げ落ちてしまう。
キリスト教に限らないが、人は一生の間積善陰徳を重ねて天国極楽的に生きるのはよいが、そうやって積み上げてきたものを一生の最後に死によって失う。これも虚無、不条理、理不尽である。死の直前までそういう目に遭わなかった人でも、必ず遭う。人によっては人生早期に虚無、不条理、理不尽に遭う。何のための日々の努力の積み上げだったのだろうか。
そして死の直前に求道、冥想修行に入っても、大方は間に合わないのだろうと思う。
よって早期からの冥想修行が好ましい。
神に至る道は、大別すると三種。神に憑依してもらう、神を見る、神人合一。