◎ジェイド・タブレット-07-04
◎天国まで-04
◎アポロン型文明の終わり
5.【天国のみを志向する時代の終わり】
『天国のみを志向して、地獄サイドをなるべく見ない』とは、キリスト教をバックボーンにした近代西欧文明の特徴であって現代社会のテーマである。
冒頭に断らなければいけないことは、『天国のみを志向して、地獄サイドをなるべく見ない』アポロンの時代の2千年を構築したイエスは大いに成功したということ。イエスなくして、自我を拡大させ知性が大いに発達した現代人が、その洞察力で神仏に臨んで行こうとする現代までの文明の発展はなかった。
またアポロン型文明が、この時代に終わることは、北欧神話のバルドルの死やノストラダムスの諸世紀の一部で予言されている。
さて死を恐怖して、忌避するのは、個人の心性だけではなく、社会全体がそうなっている。社会全体が死を恐怖して死を忌避するアポロン型文明になってしまっている。
すなわち日本も含めて、近代西欧文明では、光の部分だけを強調し、闇の部分を抑圧してしまおうとする共通の心性が見られる。これをアポロン型の文明と呼ぶ。
西欧では、この2千年、イエスの観想法を中心としたキリスト教が席巻したが、死の世界を究めようとする垂直の道(クンダリーニ・ヨーガ型の宗教)は結局根付くことはなかった。わずかに錬金術や魔術などの伝統が細々と続いてきたにとどまった。
その結果が、天国に代表される生の明るい面ばかりを強調し、死や無意識を徹底的に隠していくアポロン型文明としての近代西欧文明が、物質偏重の現代文明として世界をリードしている。
最近のこの文明では、楽しいこと、楽なこと、嬉しいことがとにかく優先されて、苦しいこと、つらいこと、不愉快なことはなかったことにされがちである。
死を予感した一部の老人は別にして、今の人々の一般的な死のとらえ方というのは、『自分に限って、死ぬことはあり得ない』というものではないだろうか。つまり自分の心の中の無意識にとっては、自然現象や老齢によって死ぬことは、およそ考えられないこと。従って死は、例えば死ぬことに値する自分が行った過去の悪業の報いである恐ろしい出来事として、運悪く出現するものと感じられよう。
そして近親者で死んだ人は、自分にとって自分を寂しい思いに陥れた悪い人物と認識されることもある。つまり死者たる人物(たとえば母親)は、生前は愛し求めてやまなかったものだが、死後は悲しい別れを引き起こした憎むべき者に変わることがある。その場合の原因は本質的な自己中心性に由来する、自分に不都合なことが起こったことに対する怒りである。
また今の日本の社会では、一般に子供に対して親族の死が発生しても隠すことが多いが、子供は、死という解決できなかった悲しい謎を抱えたまま成長することになる。死はタブー、忌み嫌われるのが当たり前なものとして、謎に満ちた恐ろしい出来事と見なして、たいていの人が成人する。
つまり死とは、死んだら何も残らなくなる不愉快でよくわからないことと思っている人が結構多いのではないだろうか。こういった影の部分(死)を徹底的に隠していく社会がアポロン的社会。アポロン的社会とは、光明の側のみにスポットライトをあてた社会のことである。そこでは死はタブー、あってはならないものとして扱われる。
死のことばかり挙げたが、無意識も死の世界である。無意識に大きく影響を与えているものとして、天国的楽しみの基幹技術のひとつであるヴァーチャル・リアリティがある。ヴァーチャル・リアリティとはイメージとか想念、感情の世界だが、それは現実に近いだけに無意識を通じて現実に相当に影響を与えてくる。
ゲームとか自分の想念、感情の世界の中で、利己性、経済性と便利を優先する行動は、ロジカルではあるが、その行動は実は地獄的である。そういう人が増えると、この世は地獄となる。
さらに、たとえば内心利己的であっても挨拶や礼儀を欠かさなければ、社会的に非礼ではないとして過去何千年やってきたのだが、実は利己的であるということは地獄の拡大再生産であって、ここに来てバーチャル・リアリティーの発展によりそのペースが急加速し急拡大している。
20世紀後半から食料、エネルギーの世界的増産と交通機関の発達により、世界は狭くなり70億人を超えたが、神知る人を少しは残さなければならない。
このようなやり方で、地上に地獄が拡大し過ぎると、助かる命も助からないということはあるので、その地獄を地上に拡大せんとする異形のペースが、ある一定の閾値を越えたのではないかと思う。
だが世の大きな流れが回転し始めると、行くところまで行かないと止まらないということはある。
アポロン型文明すなわち天国のみを志向する世界は、現代のように結局地獄的世界の蔓延を見ている。そして行くところまで行かないと反転は始まらない。
我々は、天国のみ志向することをもはや長く続けることはできないのだ。
なお、天国のみ志向することの反対語は、あるものはあると認めるということである。