◎ジェイド・タブレット-07-05
◎天国まで-05
◎【天国志向と積善】-1
禅堂の生活と修道院の生活が似ているのではないかと思ってはいたが、実際に両方を過ごした人の文に出会った。どちらも巷間の喧騒をはなれた、瞑想のための専門道場である。
この文の著者の門脇佳吉氏は、中学の5年間に毎年数日禅寺に泊まり込み、坐禅や作務を経験した。
『私は大学卒業後の3年後にイエズス会に入会し、広島の長束で、修練の2年間を過ごした。修練院に入ってみると、「霊操」にもとづく修道生活が多くの点で禅の禅堂生活に似ているのに驚いた。
毎朝5時に起床し、すぐに屋外に出て体操し、洗面後一時間黙想し、ミサに与った後に15分間反省する。
7時半には沈黙のうちに朝食をとり、食後30分間で家の内外を掃除する。
しばし休憩の後、修練長から1時間講話を聞く。正午前に15分間自己を究明する。昼食後しばらく休んだ後に、作務をし、霊的読書をした後、聖堂で黙想し、夕食をいただく、食後の休憩の後、修練長から翌日の黙想すべきことについて講話を受け、自己究明の後に床に就く。
この日課を少し変えて、5時の代わりに4時に起床し、黙想・反省・究明の代わりに坐禅とし、ミサの代わりに朝課(朝の勤行(ごんぎょう))とし、修練長の講話の代わりに老師の提唱とすれば、イエズス会の修練期の日課は、そのまま禅の僧堂生活に早変わりすると言ってよいだろう。
一日の日課は30分か1時間単位でみっちりと組まれており、鐘の合図で共同で行動し、沈黙が守られることも禅門と同じである。』
(霊操/イグナチオ・デ・ロヨラ著/解題/門脇佳吉/岩波文庫から引用)
イエズス会の黙想・反省・究明は、観想が中心であるのに対し、坐禅では、丹田禅か只管打坐という違いがあるが、その他の部分について類似している。こういった規則正しい生活の中で、精妙なエネルギーが培われるままに数か月送れば、神を見たり、本来の自己に出会うことが、巷で暮らすよりは、はるかに高い確率で発生することを、修道院を作った人も、禅堂を作った人も知っていたのだろう。
門脇氏はまた、霊操は4週間にわたる観想のカリキュラムであるが、これが一週間にわたる禅の接心(坐禅漬けの修行期間のこと)と似ていることも指摘している。修行のスペシャル週間のメニューも似ていたわけである。