○神のために神を捨て去る
神を知ること、神を一瞥することとは、いわば、天国を味わうこと、一見することなのだと思う。それは修道院や専門道場などの正しい修行環境にあって、きちんと一定期間(数か月とか)修行を積み重ねれば、そういうことは起こってくるものだろうと思う。
しかし、それは、自分と神が別である立場を捨てないままでの天国に居ることであり、神的な高み、真善美、安心というものは極められているが、自由が足りない。高さだけは極めたというものである。
禅の十牛図の第三図で牛は見たが、牛のことを自由に飼い馴らしてはいないのである。
そこで、エックハルトの言い回しで言うところの『神のために神を捨て去る』という、言うなれば天国を捨てることが求められる。これが自我の死で、ハイレベル・トランスの先にあるもの。
『人が捨て去ることのできる最高にして究極のものとは、神のために神を捨て去るということである。ところで聖パウロは神を神のために捨て去った。彼は、神から受けとることのできたすべてを捨て去ったのであり、神が彼に与えることのできたすべて、彼が神から受け容れることのできたすべてを捨て去ったのである。
彼がこれを捨て去ったとき、その時に彼は神を神のために捨て去ったのであった。
そしてそのとき、彼に残されたのは神であった。しかしその神は、彼に受けいれられたり手に入れられたりされる仕方での神ではなく、神が神自身の内においてあるような、それ自体において、みずからの内において存在している神である。
彼は神にいかなるものも与えたことなく、神よりいままでいかなるものも受けとったこともない。それはひとつの一であってひとつの純粋な同一化である。
ここにいたって人はひとりの真なる人間となり、このような人には、神的有の内にはどんな苦しみも生じないように、いかなる苦しみもない。
すでに何度となく言ったように、魂の内には神ともともと一であり、合一して一になったのではないというほどに神と一にして似ているあるものがある。この一なるものはいかなるものとも共通性をもたず、神より創造されたあらゆるもののうちのどんなものとも共通性をもつことがない。
創造されたものはすべて無である。ところがこのものはすべての創造性より離れ無縁である。』
(エックハルト説教集/エックハルト/岩波文庫/P89-90から引用)
チャクラと七つの身体-55
◎肉体-38 ハイレベル・トランス-11
◎天国もいいけれど
【ザ・ジャンプ・アウト 111】