◎飢えや渇きを感じている肉体を観照している自分
一般に人は、自分の肉体と同一化して生きている。そこでOSHOバグワンは、人間は、飢えや渇きなど、自分の肉体に起きていることについて、連続的に気づいていることから、『人間とは意識、連続的に気づいている意識だ。彼は体験者ではない。単なる知る者だ。』(死ぬこと生きること/OSHO/市民出版社P204から引用)と述べる。
飢えや渇きを感じている行為者は、自分ではなく、「飢えや渇きを感じている肉体を観照している自分」こそが、本当の自分であり、連続的に気づいている意識だとOSHOバグワンは、言う。
肉体を観照している自分とは、エーテル体もアストラル体も、メンタル体もコーザル体も観照できるに違いない。なぜなら肉体からコーザル体は自分の個なるボディだからだ。よって、肉体を観照している自分とは、世界全体、宇宙全体である自分ということになるのだろう。『肉体を観照している自分』とは、個なる自分がドッペルゲンガーみたいに別にどこかにあるかのように誤解させる言い方だと思う。
イエスは、十字架にはりつけになった時、痛いとか喚いたりしなかった。スーフィの聖者ホセイン・マンスール・ハッラージも手足を切断されても痛いとか苦しいとか叫ばなかった。神奈川の慧春尼は、火のついた薪の上に坐っても熱いなどと言わなかった。痛みに苦しんでいるのは、自分の本体でなく、自分の一部である肉体に過ぎないと承知していた。三者とも『観照している自分』がいたからである。
OSHOバグワンは、自分自身を笑うという言い回しをすることがあるが、それは、他人ではなく自分自身の目撃者あるいは観照者になるということである。
それは、見神、見仏、見性なのだろう。見ている自分を残しているから。
なお、連続的に気づいている意識には、気づいていない隙間が断続的に存在している。