◎ダンテス・ダイジの性愛冥想から
芸能界や世間で、菩薩、マリア様と呼ばれる女性は、時に貞操がゆるい女性の代名詞だったりする。親鸞が妻を観音菩薩の化身と見たのは、別のこと。
親鸞の妻は二人。最初の妻は九条兼実の娘・玉日だが、亡くなって 二番目の妻恵信尼と再婚した。
以下ダンテス・ダイジの性愛冥想から。
『インドのサーキャ哲学の系統を引いた左道タントリズムには、すべて交合する相手の女性をプラクリティーと見なす立場がある。
プラクリティーとは簡単に言えば、現象世界一切を意味し、 サーキャ・ヨーギは、そのヨーガ行を通じて、現象一切を滅尽して
プルシャとは、不変不滅の絶対観照者であり、プルシャに到って、人間のあらゆる苦悩は消滅する。
しかし、もともとのサーキャ・ヨーガの原義は、あくまでもヨーガ行者の実存的冥想の中で覚証開明されるものであって、プルシャ-プラクリティの教説は、あくまでもヨーガ冥想実践者の純形而上的論理として、実践の指標とするものに他ならない。
だから、プラクリティを女性と見なして、その女性との性交により、解脱を得んとする立場は、すでに純粋ヨーガの立場が、形式化、儀式化に堕落する危険を包んでいると言える。
このヨーガ・タントリズムの儀式化は、浄土真宗開祖親鸞上人が、その妻を観音菩薩の化身と見て、そこに霊的結婚生活を生きたのとはまったく違う次元のことなのである。
親鸞の言う「観音菩薩」としての女性とは、
彼が、女性を観音菩薩の化身と見立てるというような儀式的なことではなく、彼は絶対者の顕現としての、一切万物の中の一つのかけがえのないものとして、妻を観音菩薩であると直視している。
親鸞のその妻との具体的性生活の内容は、知るよしもないが、彼が妻即観音菩薩という覚知を得たことによって、性愛神秘主義の実践者であったことは、充分に納得することができる。』
(ダンテス・ダイジの性愛冥想から引用)
要するに親鸞が性愛冥想の修行者でなければ、妻即観音菩薩という境地は出てこないと言っている。
観音菩薩とは、あらゆる世界の現象の流出元であるが、それはクンダリーニ・ヨーギにとってはアートマンと呼ばれる上昇であったり、只管打坐では身心脱落と呼ばれる下降だが、それぞれの冥想法においてはそれまでの修行プロセスに応じた個と全体の逆転のネーミングがあるものだ。
妻即観音菩薩といえば、インドならサンヴァラ交合像を思い起こさせるが、その性的な具象は、あくまで世界全体のシンボルの一種であって、親鸞はそこに人間を超えた救済を見ているのだと思う。
※サーキャ哲学とは、サーンキャ哲学のことか。