◎来たるものあり
イグナティウス・ロヨラの霊操では、天国の有り様を観想し、地獄の有り様を観想し、イエスの一生を時系列的に観想でたどり、イエスの御受難と復活までを四週間にわたって観想したならば、ここで「愛に達するための観想」が求められる。
まず愛は相互に譲与し合うことであり、行いによって示すという心得が示される。
そして天使、諸聖人の前に自分が立っているのを見て、神から受けた数々の恵みを深く悟ることを祈願する。続いて神が自分に与えてくれたあらゆる賜物を想起すると同時に次のとおり祈る。
『主よすべてを取ってお受取りください。
私の自由、私の記憶、私の知性、私の意志をすべてお取りください。
私の持てるもの、私の所有すべてをお取り下さい。
これらのものを御身は私に与えてくださいましたから、主よ御身にお返し致します。
すべては御身のものですから、どうぞ、御旨のままにお取り計らいください。
願わくは御身の愛と恩寵をお与え下さい。
私はそれだけで充分です。』
(霊操/イグナチオ・デ・ロヨラ/岩波文庫から引用)
自分の準備ができたのならば、自分に属するすべてのものを棄て去って、本物が向こうからやってくることを待つという基本線が、この祈りから窺える。向こうから来るのであって自分の中から来るものではない・・・如来・・というポイントから見てもこの祈りの正統的であることを感じさせられる。