◎凡夫の耳も菊の年
(2022-06-13)
新約聖書外伝のペテロ行伝の最初に、回心者パウロが人々にパンと水を分け与えていた時、ルフィナという女性が近づいてきた。パウロは、「彼女は聖餐を受けるのにふさわしくないのに受けようとしている」と咎めた瞬間に、彼女は左半身不随になって口もきけなくなった事件が出ている。これを見た周囲の人は、恐れおののいて、自分の心の在り方を再チェックすることになった。
ルフィナが倒れたのも奇蹟の一種であって、そうした突発事件を見せて、パウロがこれは人々の行動を採点する神の仕業であると説明すれば人々は容易に信じる時代の手法。
時は下り1970~80年代は、人間の外的欲望が実は無形のものへの欲望であって神への希求が隠されていることを、聖者(クリシュナムルティ、OSHOバグワン、ダンテス・ダイジなど)が複数出て盛んに説いた時代だった。当時はまだそういう手法が通用した。
いまは、黒いものを白と言いくるめ、オレオレ詐欺、ネットワークビジネス、コロナ持続化給付金詐欺まで、便利と損得で釣れば、神も仏もなく、ころりと騙される人が多い時代となり果てた。
便利と損得コスパしか念頭になければ、まず神も仏も意識には上がってこないものだ。
そうした時代でも、生活に全然余裕がない人や、便利と損得コスパしか頭にない人たちも、神仏に祈るようなことが発生する時期。それが、どんな不信仰な人でも神仏に耳を傾ける年のことであって、凡夫の耳も菊の年。
そのような異常事態の発生は、明治中期から幻視されていた。その幻視は人類にとってはベターな路線ではなく、神知る人が至る所に発生し、平素当たり前に慈愛、憐み、清貧、節制、温情を為し、神仏のことを思う人が大多数である路線のほうがベターである。つまり異常事態が発生しない路線の方がベター。
自分が不幸、不満なのは、政治のせい、経済政策のせい、反日政策をとる隣国どものせい、日本から収奪する米国のせい、社会のせい、家族のせいなどいろいろ理屈はあるかもしれない。
ところが、人が今日一日無事に過ごせて、食べるもの着るものがあれば、それは十分に奇蹟である。そこから感謝と敬虔が起こる。それにピンとくる人が増えれば、時代は変わり始める。
その点で、神仏に無関心な人の耳目さえ一気に引き寄せる『凡夫の耳も菊の年』の到来は偉大だが、それは神仏の本意ではあるまいと思う。
※「辛の酉の紀元節、四四十六の花の春、世の立替立直し、凡夫の耳も菊の年、九月八日のこの仕組。」伊都能売神諭。