◎不安定な悪役
(2015-12-09)
ケルソス反駁という文章は、オリゲネスが著したもので、何かとイエス・キリストの事績を批判するケルソスに対し、オリゲネスが公平な立場で、ある程度イエスを擁護していくものいである。
福音書を見る限り、銀貨30枚で師匠を売り渡したユダは、イエスに接吻することで、イエスに対して尊敬の念を持っていたようである。またイエス刑死後は、銀貨を返しに行ったり、反省の念からか自殺するという挙に出ている。ユダはイエスを敬慕していた。
ところが、イエスは官憲から逃亡の旅をしているところ潜伏先を急襲されて逮捕されたのではなく、ユダヤ官憲に誰がイエスかと問われ、自分がイエスだと答え進んで官憲に我が身を引き渡している。だから、官憲に対してユダが潜伏先情報を銀貨30枚で売ったからイエスは身柄を確保されたという推理は弱い。むしろイエスは自ら官憲の手に落ちたのだろう。
また本当にユダがイエスへの裏切りをしたのであれば、破門されるべきであって、十二使徒から除名ぐらいの話はあるべきだが、そうした記述はない。仮に福音書の想定するように、イエスの逮捕から刑死までの間、ユダはアンチ・キリストな心情であったとすれば、ユダは少なくとも磔刑執行の間、官憲支持に回ってそれを喝采しながら見ている方が自然だろう。
こうしたユダの不自然な悪役ぶりであるが、これによってキリスト教は世界宗教としての教義の体裁を整えることができたとも考えられる。
というのは、キリスト教が人類普遍救済の世界宗教となるには、神の子が刑死するというあってはならないイベントを、預言者の刑死は神との約束である予言の成就であったと宣伝することで、昇華させた。これにより、ユダヤ教の文脈とも折り合いをつけることができ、刑死と復活を経てなおイエスが救世主であるとすんなり考えることができるようになったからである。
しかし禅ならば、これと全く異なる立場がある。道で達磨に逢ったら達磨を殺せとか、不思善悪などである。誰が悪人だとか、誰が裏切ったなどということはどうでも良いのである。