◎散りぬべく 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ
(2020-11-29)
大阪の南蛮文化館に細川ガラシャが肌身離さず持っていたとされる十字架が展示されている。
https://www.christiantoday.co.jp/articles/22572/20161115/nanban-bunka-kan-osaka.htm
表には明智家の家紋である桔梗と秋草とトンボが彫られ、裏面には竹と鶴が象嵌され、純銅製の象嵌に一部金彩と小さいが細工は綿密豪華なものである。
細川ガラシャは、明智光秀の三女「たま」として生まれ、15歳で、当時その武将としての器量を織田信長に認められていた細川忠興に嫁ぎ、二子に恵まれた。ところが19歳の時本能寺の変が起こり、細川忠興は光秀から加勢の出兵を求められたが出さなかった。たまは、一朝にして謀反人の娘となったが、忠興の愛情もだしがたく、これを殺さず、丹後の国の味土野(京都府京丹後市弥栄町)に幽閉した。幽閉中男子一名が生まれ、豊臣秀吉の許しもあって、幽閉期間2年で大阪に転居した。
夫忠興が九州に赴任中に、カトリックに傾倒。これに反発したのか、忠興は「五人の側室を持つ」など辛く当たったため、神父に離婚の相談をするなど夫婦仲は冷えていた。
1587年伴天連追放令が出される中、彼女は洗礼を受け、ガラシャ(gratia、恩寵、恵)の洗礼名を受けた。
1600年7月、忠興は徳川家康に従い、上杉征伐に出陣する。忠興は、「妻の名誉に危険が生じたならば、妻を殺し、全員切腹するように」と言いおいていたが、敵方の石田三成が大坂玉造の細川屋敷にいたガラシャを人質に取ろうとしてきた。
石田三成の手勢が屋敷を囲んだところで、侍女や他の女たちを逃がした後、ガラシャは、家老小笠原秀清に介錯させた。ガラシャの死後、小笠原秀清も屋敷に爆薬を仕掛け、ガラシャの遺体を残さないようにして自刃。
ガラシャの辞世。
「散りぬべく 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」
明智光秀の居城は亀山城で、大本教の本部。出口王仁三郎の霊眼では、明智光秀は、秀吉と結託して織田信長を謀殺、中国大返しの後は、天王山が決戦となることが最初からわかっており、信長を殺害後はわざとぐずぐずして、秀吉に討ち取られたことにした。光秀は、日本の風土では、主殺しの汚名を着た者の天下は長続きしないことはわかっていたからである。
その後、光秀は千利休になりすまし、秀吉の参謀として長年にわたり秀吉に献策し続け、朝鮮征伐もその一つだとする。彼によれば、何でも光秀=千利休説は千家長男の一子相伝の秘密だとか。
また利休切腹の原因は、娘を秀吉の側室に出すのがいやだったからなどと取りざたされてもいるが、誠に二人の英雄の心中を誰が知ろう。(随筆集水鏡/出口王仁三郎)
ガラシャも戦国一の美貌であったからこそ狙われたという側面はあろうし、だからこそ忠興も手放そうとはしなかったのだろう。
出口王仁三郎は、「生まれつきというものは、過去のカルマで決まっているものだから、美人は美人として、醜女は醜女としての本分を守るのが天地惟神の大道である。このように上下の万民が一致して、美醜などその差はあるがその本分を守る状況となれば、神示にいうところの万民が平等の、運不運のない五六七(みろく)の世が現出するのである。」とする(霊界物語第四六巻第一七章「惟神の道」)。この考え方は、何でも平等の現今の考え方とは違うが、現代のようにスーパーリッチを許す一方で表面の平等に神経質であれば、やがて相互の争闘は止むことなく世界戦争に発展していく仕掛けである。
ガラシャの本分を守るというのが、「散りぬべく 時知りてこそ」。