◎見ている自分が残り、消える
イーシャ・ウパニシャッドでは、自分個人が世界全体に転換して、その次に言葉では言えないシチュエイションに飛び込むわけだが、自分個人が世界全体に転換するサプライズについては、感動を以って描かれているわけではなかった。
すでに非思量底の、つまり思考を超えた世界であり、無意識の世界ではシンボルで思考するなどと言うが、その思考は麻痺し、その場では立ちすくむばかりで、ただ見ているばかりなのか?見ている自分と見られるものが合体する瞬間。
第一、イーシャ・ウパニシャッドの経文の
『いとも麗しき 善なる汝の姿を我は見る
我は日神たちと共に座す者である』
(イーシャ・ウパニシャッド/OSHO/市民出版社P358から引用)』
この一節の前半では、見ている自分が残り、後半では見ている自分は残っていないかのようである。よってこの一節だけが、個から全体への逆転だとして、そのサプライズの動揺も記述がなく、その変化が当たり前のことのように淡々と描かれている。
まるで「体験した者だけがこれをわかる」という風である。
天国と地獄を卒業すれば、非二元、ノンデュアリティの世界に入るはずが、そのメカニズムはそう単純明快なものではなく、人間の現実認識のあり方からすれば容易に具体的に描写できる代物ではないようだから、このようなわかったようなわからないような記述になるのだろう。
禅の信心銘で、自分と世界全体についての言及がある。
『真如法界 他無く自無し
急に相応せんと要せば 唯(ただ)不二と言う
不二なれば皆同じ 包容せざる無し』
(大意:過去現在未来を含む世界全体には、他も自もないが、どうしても言葉にするならば、非二元(不二)である。不二はすべてを含む。)
これも、『悟りを開けば、世界はあなたと私は一緒の非二元』みたいな単純な物言いを避けた表現となっており、そこにこそ秘儀、神秘が隠されているのだろうと思う。
人はいろいろと願望がありすぎて見込みのないことばかり望み続けるものであり、本当に追い込まれてどうしようもなくならないと『現実を受け容れない』あるいは『真理を受け容れない』ものである。その先に真如がある。