アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

悟りと生きる情熱の多寡-4

2023-08-20 03:07:19 | アヴァターラ神のまにまに

◎悟りに足る情熱の多寡

 

ダンテス・ダイジと弟子の会話の続き。

逆転とは、悟りのこと。日本では肉体死した人のことを「仏になる」と言い慣わすが、肉体死した人のほとんどが悟りを開くわけではないことをまず述べている。

そこで情熱を持つ人だけが、死に際して悟りを開くと述べる。その死は肉体死であるとは限らず、情熱がある人の精神の死であることがある。

 

『S「そういうふうに、逆転がない人も沢山いるんですね。」

ダン「うん、逆転がない人っていうのは折り合っちゃう。妥協しちゃうんだ。つまり、例えば、死っていうものを、死の経験をするとするでしょ。そうすると『ああ、死ぬのか』くらいで考えてさ『死ぬんだ。もうこんなことは、もうこれ以上関わってもしようがない』ってふうにさ、どっかへしまい込んじゃうのさ。懐へ奥深く、そしてパチンと蓋をしてさ、鍵を掛けて、その鍵をポン投げて。」

S「それが大半の人間でしょう?」

ダン「うん。大半の人間だ。だから、何よりも情熱が人をね、その人自身に変えさせる。情熱なんだ。本当に愛しさを感じた人でなければ、無限の広がりを経験することはない。

でも、大丈夫。ここにいる人達はさ、それに出会うだけの情熱を持ってるから、こういう縁が出来た。』

(素直になる 雨宮第慈講話録4/渡辺郁夫編P5-56から引用)

 

「無限の広がりを経験する」ということも悟りを開くということ。

悟りには生きる情熱が必要だ。前段で迷いの大きな人だけが悟ると語っているが、生きる情熱が大きい人だけが、迷いが大きい。禅で言えば疑団。禅でも、坐れば坐るほど必ず疑団が大きくなるというものでもなかろう。禅僧洞山は、死んだばかりの僧(悟りきらないまま死んだ若い僧)の頭を三度棒で打ち、輪廻から抜けられないぞと独白するシーンがあるが、それはそのことを示した場面の一つ。その若い僧には情熱が足りなかったのだ。

 

ダンテス・ダイジは、弟子たちに対し、彼と知り合ったからには、そのための情熱は既に足りていると勇気づけている。

 

じゃあどのようにすれば情熱を増やせるのかという質問が来るのだが、どうもその情熱は生まれついてのものであるような感触である。坐り詰めに坐る、あるいは為すべきことを一つ一つこなしていく、そうしたことの先にあるのが、悟りに足る情熱量のその人生での若干の増加なのではないかと思う。

 

洞山には、この話の他に最上位弟子(首座)を問詰したあげく死に追い込んだ故事もあるが、それもその辺の理屈を反映している事象なのではないかと思う。

 

今生において「生きる情熱」をさして増やせないとした場合、万人一斉に悟るシーンが予定されているシーンが幻視されていることが新たな疑問点として浮かび上がってくる。

それは、キリスト教の空中携挙であり、出口王仁三郎の「凡夫の耳も菊の年」である。

これは、歴史的社会的な事件なのかどうかはわからない。ただし、チベット死者の書で、死のプロセスの最初の段階において、万人は必ず「原初の光」という神を目撃することができるシーンがあることを意味している可能性もあるように思う。

 

それは、ファンタジー好き、幻視好きの人には面白くない解釈かもしれないが、承知しておくようなことかもしれないと思う。充分な情熱なくしても、「原初の光」の目撃はあり得るのではないかということ。

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悟りと生きる情熱の多寡-3

2023-08-19 03:38:55 | アヴァターラ神のまにまに

◎この世の仮の姿というのを認めざるを得ないような事態に直面すること

 

ダンテス・ダイジと弟子の会話の続き。

『渡辺「さっき言ったね、普通の宗教のメソッドの悟り方っていうのは、機が熟してないと起こらない?」

ダン「うん。全く偶発的に起こる。」

渡辺「偶発的?」

ダン「うん。」

 

渡辺「起こるだけの素地というか、経験ていうものがあるってことでしょ。」

ダン「もちろんある。それは、それに機が熟するというよりはね、その人が本当にこの世の仮の姿というのを認めてしまう。認めざるを得ないような事態に直面したっていうことだ。

 

そういう時は、本当にものすごくそれはきつい。最初は。きついけど、必ずその人の情熱が、本当にこの世のどうしようもなさっていうのをさ、簡単に認めるような人でなければないほど、つまり迷いが大きければ大きいほど、 必ず素敵な世界であったっていうことを気付く。」』

(素直になる 雨宮第慈講話録4/渡辺郁夫編P55から引用)

 

ここでは、悟りがどのように起こるかを、微妙な言い方で語っている。

つまりその人が迷いが大きい人であって、本当にこの世の仮の姿というのを認めざるを得ないような事態に直面する場合に悟りが起こるとする。それは、そのような事態が起こっても、誰もが悟るわけでもない。

それを承けて考えてみると、

 

迷いが小さい人の場合、行く先は次のとおりになる。

①元の社会的常識世界に退行していく

 

一方迷いが大きい人の場合、行く先は次の三種のどれかになる。

①元の社会的常識世界に退行していく

②発狂する、自殺する

③悟りを開く

 

翻って、例えば長年神の来臨を待望した人が、いざ神が不意に来臨した時に寝過ごしてしまうなどというのは、「起こることは起こったが、何が起こったかは分からないままだった。」という風に説明されてしまう事例の一つなのだろう。

 

なぜそのようなことが起こるのか。

 

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悟りと生きる情熱の多寡-2

2023-08-18 06:10:47 | アヴァターラ神のまにまに

◎既成組織宗教の中での悟りとその枠にとらわれない形での悟り

 

ダンテス・ダイジと弟子の会話の続き。ここでは既成組織宗教の中での悟り実現とその枠にとらわれない形での悟り実現を述べる。

『渡辺「普通、いわゆる宗教家の場合はそれを越えようとするわけでしょ?」

ダン「いわゆる宗教っていうのはさ(笑)、つまり一定の概念というのか、用語とか、シンボルを使ってしか入れないさ。一つのテクニックを決めた中で入って行くからだ。だから、大抵の場合、相当出来る老師でもね、禅から入った人じゃあなくてさ、何か特別なきっかで悟りを開く、見証(まま)するっていう人いるんだ。例えば、本当にわけがわからない時に、自転車か何かに乗ってて、転がって、バターンと行った瞬間に、全部が帳消しになっちまう世界を見るとか。あるいは、自分の最愛の誰かが死んだ姿を見た瞬間に、全てがひっくり返って、そして自分が生きてるのではなく・・・いい?全てが、全てが全てがさ、自分となって生きてるんだ。そう気付くこともある。

 

でも多分、禅宗の老師でも、よっぽど出来た奴じゃあないと見抜けない。何故なら、一定の入り方っていうものをパターン化してるからだ。例えば、何でもいいんだ。TMでもあるわけよ。段階が。何故ならTMのやり方っていうのをすると、必ずその段階っていうのに入って行くわけ。

 

だから極端に言うと、ヨガのある団体ではさ、こういう図盤があるんだ。 それで、チャクラを冥想させるんだけどね『何かを見た』って言うとさ、すぐ図盤持って来てさ 『お前どれを見た?』ってこうやって調べるんだよ。そうすと『おっ、三番目を見たか。うん、三番目まで行った」なんてやるわけよ。で、次は四番目へ行くためのマントラか何か上げてさ。うん。それは一つの入り方だ。そしてそれにふさわしい人が、それはとても素敵だ。でも、それだけじゃあない。人の生きざまはそれだけじゃあない。 無数の生きざまが。」

(素直になる 雨宮第慈講話録4/渡辺郁夫編P54-55から引用)

 

TMは、transcendental meditation超越瞑想の略で、教祖マハリシ・マヘーシュ・ヨーギに一時ビートルズが心酔した時期もあったが、後に幻滅しビートルズは離れたので有名。

 

『禅から入った人じゃあなくてさ、何か特別なきっかで悟りを開く、見性』した人とは、いわゆる隙間から入った人。『禅から入った人』とは、只管打坐から身心脱落というルートや丹田禅で丹田(スワジスターナ・チャクラ)の開顕から見性した人のことを想定しているのだろうと思う。また禅でいう段階といえば、十牛図だが、達磨の頃からあったわけではない。

 

ここで自転車で転んで悟る人の例を出しているが、まず悟った人には無名の人もいるし、自分で悟ったなどと言わない人もいる。キリスト者の鈴木秀子氏は、階段から落ちて見神したが、冥想の中で見神したのではなかったので、自転車で転んで見神したのと半ば同じということになろうか。

 

またこのチャクラ調べをする『ヨガのある団体』とは、本山博のことと思われる。

 

この一連の話の力点は最後の、人には無数の生き様があって、悟りも無数の形があるということ。悟りは、宗教団体に入信しなくても、続々と発生しているのだということ。だからダンテス・ダイジは、『(出家とは寺に入ることではなく)、寺を出る出家もある。』などと嘯く。

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悟りと生きる情熱の多寡-1

2023-08-17 06:43:16 | アヴァターラ神のまにまに

◎人間は結局は死ぬだけなんだ

 

悟りを考える上で、冥想方法や教義や正師や精神の成熟度の他に、生きる情熱の多寡という問題は避けて通れない。

悟りには三種あり、神下ろし、見ること(見神、見仏、見性)、神人合一とあるが、そのような形式と道具立てをいくら聞いたり読んだり理解したり、あるいはどんなに悟りたいと師にだだをこねてもできないことはできないということもある。

以下のダンテス・ダイジと弟子の会話は、思いつくままにばらばらに話が進んでいくようだが、ダンテス・ダイジの悟り観が散りばめられている。

 

『渡辺「玉城さんがね、冥想の中でさ、最後まで光がね、通らないような部分を感じるっていうのは、そ の自己なわけ?」

ダン「そう。つまり、哲学者玉城康四郎の持っている癖だ。」

渡辺「なるほどね。それは人によって最後に残るみたいなものが違うわけ?」

ダン「うん、もちろん残ったとしてもさ、完全に生き切る人もいる。」

渡辺「残ったままで?」

ダン「うん、残ったままで。それはね、クリスチャンなんかの場合でも、神と人間は絶対結び付かないという立場があるんだ。一つの立場としてね。キリストの教えじゃあないんだ。でも、そういうふうに、絶対結び付かないっていう中を、とても素敵に生きる人もいる。」

 

渡辺「どういうことなの?それは?」

ダン「うん、人はだから、それぞれっていうことさ。例えばね『ああ、この世はさ、結局死ぬだけなんだ』っていうふうに理解したとするとさ、『うん、この世はそんなもんなんだ』と理解したとしても、その中にいつでもバィヴレートしてるものがある人もいる。大切なことはね、彼がどういうことを語るかじゃあなくて、その語っている言葉が、どっから出て来るかだ。

 

いい?ある人が生きている。そしていろんな混乱に晒されている。で、突然死ぬんだっていうことを、何かのきっかけで理解する。理解した時、全てが吹き飛んじゃう。そうすれば、奴はまず、めったに人には語らないだろう。でも、同じだけ人生に直面した人に向かっては、ひょっとしたら漏らすかも知れない。『うん、そうなんだ。人間は結局は死ぬだけなんだ』その時、彼が言ってることはさ、普通よくこの社会の人達がさ、空しさとか倦怠感とかさ、不安とかの中で喋る意味ではなく、もっともっと深い彼自身の実感があるんだ。『死ぬだけなんだ』」

 

渡辺「例えば、パウロがさ、霊と肉と分けて言う時の肉みたいな、そういう感じ?」

ダン「ううん。パウロみたいな生き方ではないだろうな。恐らく完全にもし、タイプで分けるとすれば、 社会の中に貢献するっていうようなタイプに属する人の場合は、そういうふうな悟りの開き方っていうのかな、をする人は多いよ。ああ、人生はさ、全て過ぎ去って行くんだな。ということ。それだけで沢山だ。」

渡辺「いわゆる空しさとは違うわけ?」

ダン「うん、違う。空しさではない。だから、人はこういうふうに言うこと。

『人生なんて結局思い通りにならないのだ』『うーん、人生なんか本当に重いんだ。みんな死んじゃうんだ』

こういうふうに言うこともあるよ。うん。『人生は思い通りにならないな。人間は自分勝手に生きてるわけじゃあないんだから。人間は結局死ぬな』って。」』

(素直になる 雨宮第慈講話録4/渡辺郁夫編P53-54から引用)

 

ここでは、神と人間は絶対結び付かないという立場とは、人は『死ぬだけなんだ』と感得しつつ、根源からバイブレートするものを感じながら生きられる人々の立場のこと。そういう人たちは、『社会の中に貢献するっていうようなタイプに属する人』の中に多いとしている。

 

人は『死ぬだけなんだ』という気づきは、例の隙間の気づきである。

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生きている宗教、死んでいる宗教

2023-08-16 07:22:39 | 時代にFace it

◎クレージーで無思考誘導な時代と宗教

 

OSHOバグワンは、キリスト教もヒンドゥー教も死んでいる宗教だが、数少ない生きている宗教が、禅とユダヤ教ハシディズムであると語っているシーンがある。

ユダヤ教ハシディズムは、ユダヤ教の中でも数少ない冥想法の大要がわかる宗派であって、今でも覚者を出し続けているのだろう。

禅は、日本もさることながら特にアメリカで公案禅丹田禅を主要な冥想手法としながら、わかりやすい見性と十牛図を物差しに、本来禅にはない神秘主義の部分も巻き込みながら展開しているようである。

禅が神秘主義にまではみ出している図式は、老子を連想させる。

老子の悟りはとてもシンプルなものであって、禅的悟りに近いのだが、後世に老子が神秘主義の大御所に祀り上げられてしまった様子を思わせるものがある。禅では、開祖の達磨がそこまでになるのは邪道だからブレーキは効くのではないか。

OSHOバグワンは、晩年禅宣言をやったが、彼の禅への高評価が禅宣言につながったのだろうと思う。ただ彼には、禅の老師らしい峻険さがなかった。

 

フリーメーソンというのは、ユダヤ教とは別のシンボリズムを用いているようで、ユダヤ教ハシディズムとは別の宗教なのだろう。日本のフリーメーソン本を何冊か読んでも、33位階の最高位は有名な何某という話は出てくるが、導師(グル)が誰かということは一向に明かされない。故に密教的な宗教であり、また現今の導師(グル)も神を知る人物なのではあろうと思う。

出口王仁三郎は、彼らは大悪に見せて大善を為すと評してはいるが、ダンテス・ダイジは、太古の神の選民は、最後までそうかという事について疑問を呈している部分がある。

2020年の米大統領選挙は、世界のマスコミは一斉にバイデン推しのトランプ貶めだった。それと同様に今世界のマスコミは一斉に移民導入政策推しであって、日本だけが移民導入政策を強要されているわけではない。もとより移民国家である米国やオーストラリアの移民増加と、移民国家でなかった英国やドイツ、スェーデンや日本などが移民を増強されるのとでは、移民による社会の破壊圧力は全く異なる。

世界各国で民族を混淆させれば、個人主義と利己主義と相まって、自ずと不安と不満が渦巻き相争う治安の悪い社会ができあがる。全体として安定した社会として立ち行かなくなれば、人口の大幅削減策が検討されるなどということがあるのだろう。これは、全体としてバベルの塔の巨大化と言語が多様化しすぎて相互に話が通じなくなった結果、バベルの塔が崩壊した故事を思い出させる。

人為の人口の大幅削減策もあるのだろうが、地球沸騰化による農作物の大幅な収量減による世界的な飢餓の可能性は見えているのではないか。

食べることが安定しなければ、四六時中スマホを眺めて気を紛らわせるクレージーで無思考誘導な時代も直に終わるだろう。

 

万人が何のために生まれ、何のために生きるかを改めて問い直される時代に入ったのだ。

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「ももいろクローバーZ」の高城れにが幽体離脱

2023-08-15 06:30:20 | 浅い霊感から神人合一まで

◎アストラル・トリップかメンタル体トリップか

 

2023年8月2日の日本テレビ「上田と女が吠える夜」で、高城れにが幽体離脱体験を発表。その時の発言では、着地はできないが、練習を重ねていくうちに近場から遠くに行けるようになり、アマゾンまで見物に行けるようになったとのこと。帰る時は一瞬で帰って来る由。

この話は珍しいのか、yahooニュースにも上がっていた。高城れにの幽体離脱のカミングアウトは、2020年12月27日のテレビ朝日系特番『ビートたけしの知らないニュース 超常現象XファイルSP』でも行われた。その時は、「高校時代、芸能活動と学業に追われ、どこにも遊びに行くことができずストレスを感じていた高城は「幽体離脱で空を飛べたらいいのに」と思いついて、寝る前に幽体離脱のイメージ・トレーニングをしていた。ある時、突如、身体が浮く感覚に襲われ、魂が肉体から抜け出した。当時は、よく“幽体離脱”した。」と明かしている由。

 

さて幽体離脱、体外離脱は、宗派の別を問わず古来から世界的に見られるもの。モンロー研究所の専売特許でもなく、道教でも昔からある。古神道では出口王仁三郎がアストラル・トリップをしまくった。

悟りと関係のある幽体離脱は、メンタル体トリップのほうで、幽体離脱と言えば、アストラル・トリップかメンタル体トリップかがまず問われる。純粋に悟りを目指さないアストラル・トリップは、危険ではある。

 

高城れにを真似て、イメージ・トレーニングで幽体離脱をしてみようと思う人もいるのだろうが、危険千万なことである。その意味でマスコミが、こういう情報を安易に流すのはいかがなものかと思う。霊の世界にも善霊もいるが悪霊もいるのだ。戻って来れなかったり、統合失調症のきっかけになる場合もあり得る。

ただし、微細身があることが当たり前であると万人が思う時代は、このように静々とやって来るのかもしれないとも思う。次の至福千年は霊的時代である。

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また3月がやってくる

2023-08-14 20:08:30 | 時代のおわりneo

◎黄昏の感じ

(2012-02-28)

 

また3月がやってくる。私は予知能力も霊能力もないので、この世の終わりをありありとビジョンで見るなんてことはできない。でも覚醒した人がちょっと将来を覗くことがあって、そのあまりの悲惨さに驚くなんてことはあるらしい。

 

しかし、そんな特殊能力がなくてもこの世の立替について、過去予言者によって語られた断片をつなぎ合わせれば、どうなるかということは大体想像がつくのではないか。

 

曰く、日本の立替は、始まったら半年で終了。

曰く、立替の始まりは、3、4月または8、9月。

曰く、生存確率は、2%切るかもしれない。

曰く、立替立直しの後は、現代文明の利器はほとんど残らない。(そうでないと新文明なんてのはないってのは理屈に合う)

曰く、火の雨が降る。

曰く、東洋は火で滅び、西洋は水で滅ぶ

曰く、こうした天変地異の前にさる勢力が世界を統一する。

曰く、立替立直しは日本が先行する。

 

 

意外にも立替シリーズのプロローグは大地震と大津波で始まったが、1年たってもそれぞれの生き方を改めること、悟りに向かって冥想しようなどという動きが主流にはなっていない。

 

逆にまた大地震大津波がくるかもしれないので、非常食、非常用品、避難場所、避難経路など非常時のサバイバル対策に余念がない。その生き方を変えていないので、またディザスターは起きるから、その対症療法をということが主流である。

 

天変地異の発生は、地球物理の確率の問題ではなく、その時の民心の動向による。地獄的な想念の人が大半であれば、いつかその地獄がこの世に現出するのを天変地異と言う。そうした心の病原を断たなければ、日本は、改心、悔悟しきるまで、何度もそうした天変地異に襲われるだろう。

 

病原を断つとは、日々悟りに向かって坐ることである。

 

人はこうしたものをネガティブ予言というけれど、ネガティブな将来が来るような現在の生き方をしているのは誰か他の人なのだろうか。ネガティブ予言は下層霊界=地獄をビジョンで見た人が、ネガティブ予言だという説もあるにしろ。

 

しかし、功利、自分のメリット、金、生活レベルを落とさないことばかり重要と考えて毎日生活していけば、自分の身を捨てて他人に尽くすなんて発想は出てくるはずもなく、こうして不毛な地獄的想念の人間ばかりになったのが今の日本なのではないか。

 

東北関東大地震の被災者のことを単に運の悪い人と見て、自分も運が悪ければそんな天災に遭遇するかもしれないというところで、洞察が止まっているのではないだろうか。

 

そして大量死。

 

OSHOバグワンの「神秘の次元(P223)」によれば、死の影は死に先立つ6か月前から兆すという。この6か月が死に先行する黄昏である。人は、この6か月間、一日中黄昏の感じが消えずにいる。通常ならば1日のうちで睡眠前の1時間しか発生しない黄昏の感じが最後の6か月は日中の常態となるという。

 

大量死の6か月前には、そうした気分が世の中全体に満ちるだろう。「時間がない」って感じの人も。その雰囲気を感じた時、予知能力のない私は、ホンチャンの立替立直しが近いことを知る。

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三身(法身、報身、化身)を七つの身体で説明

2023-08-14 07:13:45 | 覚醒のアーキテクチャー

◎報身はある種のバイブレーションか

 

三身(法身、報身、化身)を七つの身体で説明しているのは、OSHOバグワン。

一般に三身とは、法身(真理そのもの)、報身(人々の救済に現れる仏・菩薩)、化身(応身。歴史上の仏陀など、衆生教化の対象に応じて現れた仏) などと定義される。

 

OSHOバグワンによれば、

化身:

『まず最初に見ることができるのは、化身だ――それは光の薄い層の身体で、肉体より四インチほど大きい。それは肉体のすぐまわりにある四インチ幅の光のオーラ、ごく柔らかな光のオーラだ。 これは「転生の身体」であり、それゆえに、人が死ぬ前―キルリアンが発見したように――人が死ぬ六か月前になると、この身体は消え去ってゆく。それは人の存在の内側に収縮する。それが中心に戻り、大きなオーラがただの光の点になるには六か月を要する。そしてこの小さな光の点は、あなたの身体がまだここにとどまっているあいだに転生する。』

(ボーディダルマ/和尚/めるくまーるP443から引用。)

 

雑誌ムーのファンならキルリアン写真は知っているだろう。この光の層は、誰でも見えるわけではないが、覚者にポジティイブな関心を持つ人(学生)が覚者を見れば見れるという。『人が死ぬ六か月前になると、この身体は消え去ってゆく』とあり、また6か月後の死の時点では点として存在しているからには、肉体の死後数時間で崩壊すると言われるエーテル体のことか。おまけにこれは転生までするというし。

これは霊衣のこととは思えない。

 

報身:

『だが、もうすこし理解の深い人々は、より神秘的な身体、この薄い光の層の背後に隠されている、仏教の教典中では「報身」として知られている、さらに厚い光の層の身体を見ることができる。それは充分に瞑想を続けてきたため、このうえもなく報いを受けている人にのみ生ずるもの だ。そのような人は、この世における最高の宝物、最高の報いである完全な静寂を知るに至っ ている。報身は、静寂の身体だ。だが、それはゴータマ・ブッダに非常に接近した人たちにしか見ることができない。』

(上掲書P444から引用)

 

『報身とは、実際には、〈存在〉が誰かの瞑想、誰かの静寂を認めて、その人の上に花々を振りまいている状態のことだ。誰かが光明を得たとき、〈存在〉はこのうえもなく幸福を感ずる。なぜなら、

〈ひとりの人物の光明〉(エンライトンメント)は結果的に多くの人々の〈光明〉のきっかけになるからだ。それは何世紀にもわたって続いてゆく長い長い連鎖になりうる。たとえば、ゴータマ・ブッダの〈光明〉をきっかけとするなにかが、いまだに人々を〈光明〉へ導く誘因になっている。二五世紀も経過したのに、それはいまだに続いている。それは連鎖反応だ。』

(上掲書P445から引用)

 

覚者と同じ変容を求めている覚者の弟子だけが、覚者の報身を見ることができる。

つまりたゆまぬ冥想により完全な静寂を実現した覚者は、ある種のバイブレーションを発生させるものであり、たとえば “弟子”が釈迦の故地に行けば、そのバイブレーションを死後2千5百年後でも感得できるものだと言っているように思う。誰にでも感じられるものではないだろう。

 

ダンテス・ダイジは、大本教の奥津城でそのバイブレーションを感得したという。

 

報身は、身体という表現だが、七つの身体のように誰にでもあるボディではなく、完全な静寂を実現した者にのみ起こるバイブレーションなのではないか。

 

法身:

師と混じり合い溶け込んだ弟子(帰依者)だけが、師の法身(真理そのもの)を知る。だが達磨は、帰依者は師の法身を自分と別物だと認識しており、まだ「私」が残っている段階と戒める。その先にからりと晴れた虚空、大空(真理)がある。

 

一般に定義される三身とは別のパースペクティブでOSHOバグワンは見ているが、常識的社会人にこれを説明するのは容易ではない。またそもそも霊的な見方でもない。

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大量生産の時代の終焉

2023-08-13 07:11:58 | 時代のおわりneo

◎日本は良くなりすぎた

(2016-03-16)

 

出口王仁三郎は、大量生産の時代の終わりを予見している。

物に仮託して精神的な価値を求める時代は終わるということ。要するにブランド品を金で手に入れていささかの満足を得る時代は過ぎ去ろうとしているということ。

食事も、今でこそコンビニで腐らないご飯や硬くならないパンなどを売っているが、つい2、30年前までは、食事は作ったらすぐ食べるのが基本で、干しもち、かれいい、ほしいいなどの保存食はあったが、決して日常食ではなかった。

 

「次の時代は寂しくなる」と出口王仁三郎は歎ずるが、その主因は人口の大減少にある。

中国地方に10万都市一つ、関西地方に10万都市一つみたいになるのでは、そもそも大量生産設備、部材原材料の調達と製品の配送のロジスティックスはペイしないから、大量生産はその人口規模では成立しないだろう。また工場のための人員も集まるまい。

日本の人口は、マイナスに転じた。日本は良くなりすぎたと思うのは、心ある日本人だけでなく、訪日外国人もそう思っているかもね。よかれあしかれ、そういう日本にも末路がある。

 

ああ七福神の楽遊び。

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最終戦争以後

2023-08-13 07:09:04 | 古神道の手振りneo

◎隠されていた大本神諭

(2015-11-21)

 

出口ナオ帰幽後に拝読を許された大本神諭(明治四十三年旧四月十五日)の一部。

 

改めて見てみると、この前提となるシチュエーションは、霊界での神と悪魔の最終戦争が完了し、霊界からの落ち武者が現界に影響を与えて、世界が大混乱になって、現世でも世界の立替えが行われんとするところから、再興段階において活躍できる人材のリクルートと、その人たちの活躍の確言である。落ち着いて冥想修行しなさいということ。

 

日本の立替は、大本神諭にあるとおり、三、四月、八、九月。

 

大意:

『2代教祖出口スミ、3代直日は言うに及ばず、出口王仁三郎もよほど骨が折れる。これからは出口王仁三郎がご苦労するが、天命を尽くせば、世界のヒーローとして末代まで名を残すだろう。

 

神と悪魔の最終決戦後、世界は寂しくなるが、堕天使に影響された人間が大本に寄って来る。世界から利己的な人も集まってくる。神の言うことには間違いないので、安心して身魂みがきに努めなさい。そのタイミングになったら、誠の守護神が出てきて、二度目の千年王国再興をサポートする身魂が集まってくるから、大本は忙しくなる。

日本魂(やまとだましい)の誠の者がいないといっても、今では説いて聞かせば分る身魂が、千人に一人は国々所々に隠してあるから、正勝の時には神が憑いて、身魂相応のパフォーマンスをするぞ。

そのタイミングになったら世界全体が百花斉放。艮の金神たる大神の神徳が世界中に輝き渡り、歓こんでキリキリ舞をする身魂と、恐ろしくてキリキリ舞をする身魂とが分かれて来て、世界は上ったり下がったりで、大騒ぎを一旦はするが、太古から仕込んでおいたメカニズムが水も漏らさず働くようにしてあるので、天地が動いても大したことはないけれど、悪の守護神が宿って居る肉体は、誠に気の毒なものである。

この本当にステキな日の本の神国を、外国魂の悪神に勝手放題に汚されて、神は誠に残念だが、タイミングを待ってリベンジするのだから、思い当たる守護神と人民は一日も早く神を知って、元の日本魂に立帰っていて下さい。』

 

 

原文:

『後は二代三代は申すに及ばず、海潮どのが余程骨が折れるから、今の内に十分の覚悟を致して居りて下されよ。是からは何につけても海潮どのが御苦労であれど、此の御用天晴り勤め上げたなれば、三千世界に又と無い結構な御方と致して、末代名を残さして、御礼を申すのであるぞよ。

世界が淋しく成るから、神界の落武者が人民に憑りて、此の大本へ詰かけて来るから、余程身魂を研いて置かんと、耻かしい事が出来いたすぞよ。世界の鼻高も、今度の御用に使ふて欲しいと申して、段々詰めかけて来るぞよ。

神の申した事は毛筋の横巾も間違いは無いから、安心して御用を勤めて居りて下されよ。そこに成りたら誠の守護神が出て参りて、今度の二度目の世の初まりの御用を助ける身魂を何程でも引寄せるから、此の大本は眼の廻るほど何彼の事が忙しく成るぞよ。日本魂の誠のものが無いと申しても、今では説いて聞かせば分る身魂が、千人に一人は国々所々に隠してあるから、正勝の時には神が憑りて、身魂相応の御用を致さすぞよ。

そこに成りたら三千世界が一度に開く梅の花。艮の金神国常立尊の神徳が世界中に輝き渡りて、歓こびてキリキリ舞をいたす身魂と、恐ろしくてキリキリ舞を致す身魂とが出来て来て、世界は上り下りで、大騒ぎを一旦は致すなれど、昔からの経綸が水も漏さんやうに致してあるから、天地が動いても別条はないなれど、悪の守護神の宿りて居る肉体は、誠に気の毒なもので在るぞよ。

斯の結構な日の本の神国を、外国魂の悪神に自由自在に汚されて、神は誠に残念なれど、時節を待ちて返報がやしを致すのであるから、心に当る守護神人民は一日も早く改心致して、元の日本魂に立帰りて居りて下されよ。』

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正師なくして悟る人

2023-08-13 06:42:32 | アヴァターラ神のまにまに

すぐにも教師を見いだせぬ者は虚しく一生を過ごすしかない

 

人は正師なくして悟りを得ることはできないが、例外的に正師なくして悟りを得た人間もいる。それが、OSHOバグワン。(ボーディダルマは達磨のこと。達磨は著述を残さなかった。)

 

すぐにも教師を見いだせぬ者は虚しく一生を過ごすしかない。人に仏性があるのは真実だが、教師の助けなくしてはついに会得することはできない。教師の助けなく悟るのは億万にひとりの者 だ。

 

これはボーディダルマからじかに来ているものだと言っていい。これは記録を取っている凡庸な弟子の能力を超えている。いかに学識を積んだ弟子であろうと、このようなことを口にすることはできない―――教師の助けなく悟るのは億万にひとりの者だ。ボーディダルマですら師の助けなくしては光明を得ることができなかった。』

(ボーディダルマ/和尚/めるくまーるP90から引用。ゴシック部分は経文。)

 

ここで、OSHOバグワンは、正師の役割とは確信を与えることであるが、それは、弟子に冒険心がないからだと説明する。さらに

 

『だが、いままでに起こってきたことはそうではなかった――教師の助けなく悟るのは億万にひとりの者だ。

たぶん私はそのひとりの者だ。なぜなら、私の知るかぎりでは、人類の歴史全体を通じて師を持たなかった〈光明〉の人はひとりもいなかったからだ。だがボーディダルマは、自分自身には師がいたにもかかわらず、その事実と可能性を認識していた。そして私は、彼の言明を成就した―――教師の、師の助けなく悟るのは億万にひとりの者だ。

(上掲書P91から引用)

 

ここで達磨自身は、正師のサポートを受けて悟ったにもかかわらず、正師なしで悟る者のいることを指摘したとする。その極めて稀な実例がOSHOバグワンであると自ら明かしている。

 

OSHOバグワンは、無師独悟の体現者としてそれを実現できる要件は冒険心だと明かす。冒険心とは彼のたゆまぬ好奇心と試行錯誤を恐れず進んで行くところ。一生をふいにする危険をも恐れないというのがその冒険心。断じて行えば鬼神もこれを避くので。そうした人には神仏もサポートするのだろうが容易なことではないだろう。

 

そしてOSHOバグワンは、ここで“新しい人間 new man”には冒険心があふれているから正師なしで悟る者が出ると予告している。この点については、悟りのメカニズムを知的に理解し、悟りとは自分と自分の宇宙を棄てることだと納得し、さらにその先に何かがあるだろうと確信できるほどに「生きるエネルギーが横溢している人」なのだろうと思う。新人類なら大体誰でもできるとかそういう類のことではない。

世界は人口激減し、寂しくなることを見ているのだろうか。

 

またOSHOバグワンが、正師なしで悟ったことは、不思議なことだが、この書が出版される以前の生前のダンテス・ダイジが指摘しているところでもある。

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仏伝の釈迦成道直前の悪魔の来襲

2023-08-12 06:05:09 | 人と神の「実際のところ」

◎世俗の幸福や成功を求めないことと冥想修業に命をも捨てようということ

 

ダンテス・ダイジが語った釈迦成道直前の一週間の悪魔との戦いぶりについては、そのものずばりの出典は見つからなかった。ただ悪魔の本質とは何かを知ることができる。

 

基本線は世俗の幸福や成功を求めないことと冥想修業に命をも捨てようというもので、その点を様々な形をとった世俗の誘惑やら悪魔の形をとった悪魔が試しに来るというものではあるが、出家もしていない、冥想修行を始めようとも思っていない若者向けには、ダンテス・ダイジの説話はわかりやすい。

 

さて、この時、釈迦は苦行を打ち切っていたが、まだ痩せていたという。

 

参考までに佛伝の『悪魔の来襲』を挙げる。

『2悪魔の来襲

佛伝などによれば、太子は一大決意のもとに座を占められると、その晩の初夜、中夜をすぎて、後夜すなわち翌日の早暁に、世界人生の真理をさとって、佛陀となられたとせられる。なお伝によれば、太子は前日の夕方までの日中に、種々の悪魔の襲来を受けたとせられるし、後世の伝記や、絵画、彫刻などには、悪魔襲来の情況が、きわめてくわしく劇的に記述されている。悪魔の来襲については、佛伝によれば、成道の前と後との二回あったとせられ、成道後の場合は、佛陀が世の人人に説法を開始すれば、人々は邪悪を遠ざかることになり、それだけ悪魔の領域がせばまり、悪魔の活躍する余地がなくなるので、これに抗議するためである。古い原始経典の中には、成道前の悪 魔の来襲について、次のように述べられている。

 

ネーランジャラーの河畔で、理想を達成するために、

禅定に執心し、努力をもっぱらにしている私に、

悪魔は悲観的な言葉をもって近づいて来た。

 

「あなたはやせて顔色が悪く、死に瀕している。

あなたの生きる望みは千に一つしかない。あなたは、

生きるべきである。命あってこそ善も行なうことができる。

命長らえて、梵行を積み、聖火に供物を捧げれば、

多くの福徳が積まれるのに、いたずらに努めてもむだである。

精励への道は、苦しくて行ないがたく、到達しがたい。」

かく語りつつ、悪魔は私の近くに立った。

 

このように語るかの悪魔に、私は告げた。

「無法者の親類よ、波旬よ、お前がここに来て私に、

勧めている世間的な福徳は、私に用はない。

福徳を求めている人たちに、お前はこれを説くべきである。

私には信仰と精進と智慧とがある。このように

努めている私に、お前はなんで生きることを求めるのか。

私の努力の風は大河の水をもれさせるだろう、

なんでわが体内の血が涸れないことがあろう。

血が涸れれば、胆汁も痰も涸れるであろう。

肉が尽きる時は、心はますます静まり、また

わが意識も智慧も禅定も、確立するであろう。

このように確立して、最高の楽が得られれば、わが心は、

世俗の欲を求めない。見よ、私がいかに清くあるかを。

お前の第一の軍は欲である。第二は不楽といわれ、

第三の軍は飢渇であり、第四は渇愛といわれる。

第五の軍は憂欝と眠りであり、第六は怖畏(おそれ)といわれ、

第七は疑惑であり、偽善と強情が第八の軍である。

また利得や名誉や尊敬を求め、

虚名と、自らほめ他をけなすのは、

これもお前の軍であり、悪魔の軍勢である。

悪魔よ、怯者はこれに敗れるが、勇者は勝利の楽を得るであろう。

私はムンジャ草を敷いてお前と戦おう。敗れる身の

いとわしさよ。もし敗れて生きるより、戦って死ぬほうがよい。

シャモン、バラモンのうちには、敗れ去る者がある。彼らは

善行者たちのたどり行く理想への道を知らない。」

眷族とともに武装した悪魔の軍勢を四方に見て、

『私はけっしてこの場を動くまい。」と、戦うべく私は立ち向かった。

 

「世の中の多くの人々は、お前の軍に耐えないかもしれないが、

あたかも石で土鉢を破るように、智慧をもって私はお前の軍を破る。

正しい思雅を自由にし、意識を確立させて、

私は広く世人を教化しつつ、国から国へと遊行しよう。

私の教えを信奉する人々は、放恣(わがまま)ならず、心をもっぱらにして、

憂いあることのない理想の境に至るであろう。」

 

「七年間私は世尊に付きまとって来た。

しかし意識正しい佛陀には、ついに機会を得なかった。

それはあたかも肉の色をした石の周囲を鴉が、『おそらくここに

柔らかい、おいしい肉があるであろう。』 とて、歩き回るに似ている。

鴉が美味の肉を得ないで、そこを捨て去るように、

自分もそのようにゴータマをいとうて去るであろう。」

悲しみに沈んだかの悪魔の腕から、琵琶は落ちた。

意気消沈した悪魔は、そこから消えうせた。

 

右の文中に、悪魔が七年間太子をつけねらったとあるが、伝によれば、太子が出家する時にも、 悪魔が、「あなたは家にあれば必ず全世界を統一する転輪王となって、栄華をきわめることができるであろう。」とて、太子を阻止しようとしたとせられる。その出家時から、足かけ七年を経過していると考えられる。』

(釈尊の生涯   水野弘元/著  春秋社P77-81から引用)

 

古代インドの文章はこのような雰囲気であって、ややのんびりしているが、ジャータカ(釈迦前生譚)では、前世の釈迦が太ももの肉を切って与えたりなどもっとグロなのもある。ただそのような調子では、現代人に与えるインパクトは大きくはないということはあろう。

 

釈迦成道直前の一週間の出来事を調べようと原始仏教経典を当たる人もいるだろうから、がっかりする前に参考までに挙げてみた。

 

またそういう目で見ると、稲生物怪録は、稲生平太郎の大悟直前の悪魔の来襲と見える。

 

この時代も、世俗の幸福を追求することが悪魔だと主張してもなかなか賛同を得られるものではないのだが。いわんや釈迦が自らの肉体も命も捨てると言えば、「自殺はよくない、生きることが大切。なぜなら人の命は地球より重いから。」などと反論されもする。

 

それでも往かざるを得ない釈迦のような人もいるのだ。

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サハスラーラの開花と隙間

2023-08-11 06:22:36 | 浅い霊感から神人合一まで

◎隙間自体が落ちて行き広がって行く

 

OSHOバグワンが隙間の覚知とその後を描写している。

まず前提として七チャクラは、肉体、エーテル体、アストラル体、メンタル体にそれぞれ存在する。サハスラーラ・チャクラは、各ボディに存在するのだが、遊園地の順路のように肉体サハスラーラ・チャクラを突破すれば、次はエーテル体ムラダーラ・チャクラというようにすべてのボディ上のチャクラを飛ばさずに進むものではないようなので、以下の文でいうサハスラーラ・チャクラとはメンタル体上のそれを言うのだろうと思う。

 

よってサハスラーラ・チャクラとその開花時の宇宙全体との隙間は、個と宇宙全体との隙間に相違ないのだろうと思う。

 

『サハスララの開花がはじめてやってくるとき、それはあなたとは別の何ものかだ。未知で、なじみのないものだ。それは、あなたに浸透してゆく。あるいは、あなたがそれに浸透してゆく。あなたとその開花とのあいだにはひとつの隙間がある。だが、その隙間はだんだん落ちてゆき、あなたはその開花と一体になる。そうなったら、あなたはそれを自分に起こっている何かだとは見なくなる。あなたがその起こることになるのだ。それは広がりつづけ、あなたはそれと一体になる。』

(瞑想-祝祭の芸術/バグワン・シュリ・ラジニーシ/メルクマールP169から引用)

 

OSHOバグワンは、インド・チベット伝統の隙間論を展開しているわけだが、隙間が意識の上で認知されたら、その先は隙間自体が落ちて行き広がって行くと説明していくわけだ。その広がりは最後は宇宙全体に拡大するのだが、この点こそ体験し何が起こっているのかわかっている人間しか描きえないところである。

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蛸壺やはかなき夢を夏の月

2023-08-10 06:56:49 | 無限の見方・無限の可能性

◎入ったら中は広いが、邯鄲の夢のようなものかもしれない

 

芭蕉晩年の五句。

『嵐山藪の茂りや風の筋』

(嵯峨日記)

嵐山のふもとにかけて風が渡り筋ができている。その視点の在り処よ。

 

『うきわれをさびしがらせよ閑古鳥』

(嵯峨日記)

閑古鳥を一人で聞くのはそれだけでも寂しいが、静寂の中、愁いに一人沈む自分には、閑古鳥を聞かせてもらった方がましである。

(悟った人でも気分の上下はある)

 

『宿かして名をなのらする時雨哉』

(小文庫)

時雨が降ってきたので、名乗って一夜の宿を借りることになった。時雨の機縁によるおもてなしはありがたいことだ。

 

『ともかくもならでは雪のかれお花』

(雪の尾花)

長い漂泊の旅の末に枯れ尾花のような野垂れ死に寸前の様子だが、ともかくも生きている。

 

『蛸壺やはかなき夢を夏の月』

(猿蓑)

明石の浦に旅寝して、蛸壺にはまった気分で夢を見る。人生で『はまる』『はめられる』シーンはあるものだ。それはある意味で人為ではない、自分では動かすことのできない大きなカルマの重さを感じさせられるシーンである。壺中天は入ったら中は広いが、それは、蛸が蛸壺で見る夢のようなものかもしれないのだ。邯鄲の夢、黄粱一炊の夢

 

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ダンテス・ダイジ、悪魔からの超越を語る

2023-08-09 06:47:06 | ダンテス・ダイジの風光

◎暁の明星が釈迦を導く

 

釈迦成道直前に悪魔が出現することを例にとり、その時何が起きているのかを、ダンテス・ダイジが弟子たちを前に説明している。

 

ダンテス・ダイジが、釈迦成道直前の7日間を題材にして、釈迦はどのように大悟直前に出現するという悪魔を超越したかを語っている。悪魔は形を変え品を変え数回出現し、最後は大悪魔が登場する。最後の成道では、逆転のニュアンスがある。

 

この話は何回かカセットテープで聞いたことがあるが、お恥ずかしいことだが、全容の意味がつかめたのは何十年も経ってからのことだった。自分の出来の悪さを差し置いていえば、こんな高度で込み入った説明を、ダーっと一気に聞いて理解できるだけでももう相当にいい線行っている人なのだろうと思う。

 

『弟子「お浄めっていうのは、ダイジから見たらどういう感じ?」

ダイジ「それは誰がお浄めするかによる。」

 

弟子「お浄めっていうのは、求道者の立場から見れば、自分が修行するんじゃなくて、誰かの傍にいって受けるっていうことでしょ。」

ダイジ「実際は、どんな突っ張った人だってね、必ず誰かの傍について受ける形になるんだ。

独覚ってあるだろ、仏教の概念で。でも、厳密な独覚なんてただの一つも存在しない。」

弟子「釈迦もそう?」

ダイジ「もちろん! それは暁の明星がお浄めをしたといってもいい。釈迦の場合。あるいは、釈迦の場合はね、悟りに至る七日間があったんだ。奴さん、いろんなことやって、苦行して、無想定なんて簡単に入れるぐらいになった。奴さん、達者だからね、自分の瞑想の、禅定家っていうんだけどね、本当に禅定家だ。自分の意識のレベルを自由に持っていく術を体得している。

 

しかしそれでさえ、全然解決にならんということが、いやというほど分かった。だって、意識のレベルを変えたって、そのとき問題ない意識のレベルに入る、無に入る。が、出てきてみろ、相変わらず問題は続く。で、そんなことじゃどうにもならない。それにもう一切のものを付け足しても、どうにもならない。よーし、じゃあ俺はもう、本当に全部が吹っ切れるまでここを動かん、って言って、あの菩提樹の下でさ、座り込んだ。で、こうやって座り込む。そして、一日経ち、二日経つ。そして三日目だ。

 

三日目にね、女房が現れたんだ。ヤソダラって言ったか、女房が言う。『なんて貴方は薄情な人。自分のことしか考えてないのね。私はこんなに愛してるのに、何でそんな突っ張ってるの。馬鹿げたことは止めてよ。』そのヤスダラときたら、抜群の美人だ。(笑い)が、釈迦はそれを見つめる。だって今更どうなることでもない所まで来ちまった。それくらい神経症が高じてきた。そうすると、ラーフラという子供が現れる。『お父ちゃん、一緒に遊ぼうよ。人間は生まれていろんなことをして死んでいくものでしょ。それなのに、なんで、お父ちゃんはそんなバカげたことやってるの?一緒に遊ぼうよ。』

 

…が、何かがおかしい。本当はおかしいものなんか何一つないんだが、釈迦にとっちゃおかしい。何かおかしい。

それで釈迦は言うんだ、ヤソダラとラーフラに向かって。『悪魔よ去れ。』

でも相変わらず、まだ付きまとってる。

 

そして四日目。ヤソダラとラーフラと、一緒に修行してた4人ばかりの弟子が現れる。そして、それから、父が現れる。親父さんの王国、そんなに大きい王国じゃなかった。

常に外敵と戦ってる。今とても危険に瀕している。それで親父さんが言う。『なあ、シッダールタよ。そんなバカげたことを止めて、俺を手伝ってくれ。お前にはその気力もあるし迫力もあるんだ。お前がもし俺を手伝ってくれれば、この国も安泰だし、この国の住民もすべて平和に暮らせるじゃないか。なんでそんな訳の分からないことに一生懸命専念してるんだ?』それで、釈迦は言う。『何かおかしい、やっぱり。』で、『悪魔よ去れ。』が、一向去らない。

 

そして五日目に入る。五日目になると、今度はそれに付け加わるのが、あれが現れた。アングリマーラ、悪魔だ。言うんだ。『あなたは元々、偉大なることを完成するために生まれてきたんだ。あなたがもし今立ち上がれば、転輪聖王となって、世界すべてに完全な平和を与えることができるんだ。

なぜそんなつまらない、ちっぽけな所に座り込んで、何かに頑張ってるんだ。しかも、あてもないというのに。

何をやってるんだ、一体あんたは。あなたは大いなる星の下に生まれたんだ。今より転輪聖王となって、すべての人々の調和を実現したらいいじゃないか。あなたには十分その力がある。

 

そうアングリマーラが言ったときに、すべての、今まで出会った、父、釈迦を生んだと同時に死んだ母、そして子どもであるラーフラ、妻であるヤソダラ、一緒に修行した4人の仲間、それらすべてが現れる。『一体あんたは何を目指してるんだ?』みんな言う。『生まれて死ぬのは人間の定めじゃないか。生まれて、年老い、病気にかかり、死ぬ。それでいいじゃないか。何をあなたはこだわってるんだ。一体何が問題なんだ?』

そしてその間で、やっぱりおかしい。釈迦は一向にピンと来ない。酷いなあ、どうしようもないノイローゼだよ(笑い)。おまけに今度は、サタンというか、デビル、地獄の最高の王者が来てさ、自分の目の前で礼拝するんだ。

 

六日目だ。『あなたほど偉大な者はない。あなたが今立ち上がれば、すべては解決する。

あなたがつまらないことに囚われているおかげで、どうしようもなくなっている。そんなつまらないこと、一体何のあてもないじゃないか。何を頑張ってるんだ?あなたには人々を幸福にする力が十分備わってるんだ。止めろ止めろ。あてもない瞑想して一体何になるんだ。』そしてヤソダラの愛しい姿が現れる。ラーフラの、愛しい可愛い姿が現れる。一緒に求道活動を送った友人たちの、とても好ましい、爽やかな付き合いが現れる。それから父の愛情、父性愛が、じかに伝わってくる。

 

『ああ、俺は、これほどまでして、悟りなんてわけの分からんものを求める必要が一体あるのか?もう、当たり前に、人間らしく、それらに溶け合って、その中を生きればいいじゃないか。何で俺はこんなに頑張ってるんだ?』自分の中で声がする。『もういいじゃないか。もういいじゃないか。』『いや、よくはない!人は死ぬんだ、生まれて生きて死ぬんだ。それだけであっちゃいかん。絶対いかん!』

『いや、いいんだ。いいんだ。それでいいじゃないか。何をそれに付け足すんだ?』

 

そしてまたアングリマーラが礼拝する。『あなたはもう転輪聖王だ。あなたはもう最高の人間だ。あなたが為すことで不可能なことは一つもない。あなたが今立ち上がれば、すべての生命が喜びに燃え上がるんだ。さあ、立ち上がれ、立ち上がれ!立ち上がって下さい!』大魔王アングリマーラは礼拝するんだ。

だが、自分の一番深い所で何かがおかしい。何かが。一切の懐かしいものが自分の前に現れる。その懐かしいものを捨ててまで、なおかつ究極のものを求める意味なんて一体あるのか?それほどまでに愛しいものを捨てて、その先に一体何があると言うんだ?が、その瞬間、何かが、何かが…

『悪魔よ、去れ!!』

 

そしてそれはもう七日目になっていた。その瞬間、初めて分かった。究極を求める、その求めるという心、それだけが迷いだったんだ。そして、釈迦は目を開いて、暁の明星を見る。何一つ問題はなかった。すべては完璧だったんだ。今となっては何もかもが仏だった。何もかもが成仏していた。アングリマーラ、あの大魔王さえ。神だ、何もかもが。山川草木一切成仏っていうのは、そのことだ。そして、釈迦はその中にいる。いつでもそこにいたんだ。いつでもここにいた。

ただ自分の必死な欲望、自分の必死な求め、それのみが迷いだった。いや、それさえも迷いではない。それさえも神だったんだ。分かるかね、宇宙という花が開くという意味。人間の結論なんてみんな、花が開く過程の、その時々にすぎない。そしてそれは常に移り変わる。晴れた日もある、暴風雨の日もある。が、それは、同じ空の違った表情にすぎない。荒れた海もある、とても静かな海もある。でもそれは、同じ海の違った表情に過ぎない。そして君は知るだろう、君が海自身であることを。君が優しさそれ自身であったことを。」』

 

まとめ:

1.悪魔の誘惑は大悟直前に複数回発生。まさか愛しい妻子や両親まで悪魔とは!この辺についてはイエスの大悟直前に出現する悪魔と比較し、釈迦とイエスの自我の成熟ぶりの違いを別の場所で指摘しているシーンもある。釈迦の方がより文明生活を経てきているのだ。

2.大悟の水先案内は、誰か高級神霊ではなかった。暁の明星だった。明星がその役割を果たしたのは、空海とクリシュナムルティもそう。一般に本人の頭頂の口を切るのは2、3柱の高級神霊だと言いながら、この話のような説明をも出しているわけだ。

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