◎先入観と違う言葉は心に入って来ない
OSHOバグワンの『瞑想-祝祭の芸術/メルクマール』を何十年かぶりに眺めている。この本は最近再版されたようでもある。
その中で、大悟覚醒の直前の『死んでゆく心(マインド)はいまわの際にヴィジョンを見る』(上掲書P177から引用)のだが、それはキリスト教徒ならイエスを見るし、仏教徒となら釈迦を見るが、大悟覚醒においては、それをも棄て去ると書いてある。
これは、実は真摯な大方のキリスト教徒にとっても仏教徒にとっても、ひどくショッキングな事実なのだと思う。
実はキリスト教でも中世女性神秘家がイエスとほとんど愛を交わす幻視を繰り返すシーンがあるのだが、そのイエスは本物なのだろうかといぶかしく思ったりすることがあった。
また釈迦は、仏像仏画を生前も死後もしばらく許さなかったというのはその消息なのだろうと思う。仏教では、もともと釈迦とか仏という「唯一神、主神」があるわけではないのだ。
そのことは、『心の終焉は象徴の終焉だ。そして、その最期のときには 心は自分が知っている象徴のなかでも最も重要なものを使う。そのあとは心がなくなるから象徴もなくなる。』(上掲書P177-178から引用)という部分に書いてある。
ここについては、当時自分は神や仏が何であるのか想像もつかなかったので、「神や仏を見るというのは、ひょっとすればイエスや釈迦を見ることかもしれない」などと揺れ動いていたから、まさか本当の神や仏はイエスや釈迦を見ることすらも棄てることだとは想像だにできなかった。
よって、この部分は実質読み飛ばして、無意識の中に沈潜していたというわけだ。
※いわゆる見神、見仏、見性は、イエスや釈迦を見ることなのだろうが、その先へ進まねばならないということ。
該当部分はこれ。
『死んでゆく心(マインド)はいまわの際にヴィジョンを見る――そのときやってくるものの数々のヴィジョンを見る。だが、それらは隠喩(メタフアー)や図像や元型(アーキタイプ)を通してとらえられたヴィジョンだ。心はそのほかのものは 把握することができない。心は象徴で訓練を受けている。それ以外のものでは訓練を受けていない。
象徴(シンボル)には、宗教的なもの、芸術的なもの、審美的なもの、数学的なもの、そして科学的なものなどがある。だが、それらはすべて象徴であることにかわりはない。心はそのように訓練されているのだ。
キリスト教徒ならイエスを見るだろう。だが、数学者が死ぬときには、非宗教的に訓練されてきているその心は、その最期のときに数学的な公式しか見ないかもしれない。それはゼロの象徴かもしれな いし、逆に無限大の象徴かもしれない。だが、いずれにしても、イエスや仏陀ではない。
また、ピカソのような人が死ぬとき、その最期の瞬間に見るものは、ただの抽象的な色彩の流れかもしれない。彼にとってはそれが神なのだ。彼には神性をほかのかたちでとらえることはできない。
だから、心の終焉は象徴の終焉だ。そして、その最期のときには 心は自分が知っている象徴のなかでも最も重要なものを使う。そのあとは心がなくなるから象徴もなくなる。
それが、仏陀もマハヴィーラも象徴について語らなかった理由のひとつだ。彼らは、象徴はすべて〈光明〉より低いものだから語るのはむだだ、そう言った。
仏陀は象徴について語ろうとはしなかった。そのために、彼は、彼に尋ねてはならない質問が11あると言った。何びとといえどもその11の質問をしてはならないと言明されたのだ。そして、その11 の質問を尋ねてはならない理由は、それらの質問がほんとうのところは解答できないもの、隠喩を使わなければならないものだったからだ。
仏陀はよくこう言っていた、
「私はどんな隠喩も用いたくない。だが、あなたが尋ねても私が答えなければ、あなたはいい気持ちがしないだろう。それでは紳士的ではないし、失礼だろう。だから、どうかこの11の質問はしないで ほしい。もしそれを答えれば礼儀正しくはあるだろうけれど、真実ではない。だから、私を板ばさみにしないでほしい。〈真理〉に関するかぎり、私は象徴は使えない。私は象徴を非真理のおおよそ、あるい 真理のおおよそをつかむことにしか使えない。」
そういうわけで、どんな隠喩もどんなヴィジョンも使おうとしない人たちがいる。そういう人たちはあらゆるものを否定する。 心によってとらえられた真理は〈光明〉そのものではありえないからだ。これらは二つの別のものだ。心がとらえたものは、心が消え去るとき、ともに消える。そのときにはそこに〈光明〉がある。だが、それは心なしにそこにある。
だから、光明を得ている人には心はない。
<無心>の人だ。その人は生きている。ただしどんな概念もなしにだ。その人は行為する、ただしそれについては何も考えない。 その人は愛する、ただし愛という観念などないままに愛する。その人は呼吸する、ただしどんな瞑想もないままに――。だから、生 きることは瞬間から瞬間へとであり、〈全体〉とひとつになっている。が、そのあいだに心は介在しない。心は分裂をまねく。だが、いまでは分裂はない。』
(上掲書P177-178から引用)
この『瞑想-祝祭の芸術/メルクマール』が出たのは社会人になってまもない頃だったろうか、OSHOバグワン本と言えば、存在の詩、究極の旅(十牛図)とこの本くらいしかない時代だった。
今ならOSHOバグワン本なら、奇跡の探求Ⅰ・Ⅱと秘教の心理学を真っ先に挙げる。OSHOバグワンはなんだかんだ言ってもクンダリーニ・ヨーガのオーソリティなのだ。彼の無数の膨大な試行錯誤と体験が彼の本当にどうでもよさそうな本の片隅にも置かれていることがある。96台のロールスロイスに騙されない人は、そういう貴重な片言隻句を評価できるだろう。映画ワイルド・ワイルド・カントリーとかOSHO:アメリカへの道に幻惑されてはいけないのだ。
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