唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

唐宦官伝 吐突承璀

2025-01-19 10:58:39 | Weblog

字は仁貞。福建の出身である。

憲宗に太子時代より仕えて有能であり深く信任され掖庭局博士となった。

憲宗が即位すると急速に昇進し内常侍知内侍省事として内廷を支配した。

元和元年[806]11月、左監門将军左神策護軍中尉左街功德使として軍權を掌握し、蓟国公を与えられた。

四年[809]3月王承宗は父士眞没後に成德軍節度使を継承しようとしたが、憲宗はなかなか承認しなかった。結果的に成德軍管轄の恒冀深趙徳棣の六州のうち、徳棣二州を分離し保信軍節度使とし、士眞の婿である薛昌朝を任用するという妥協にいたった。成德軍の勢力を分割し、士眞の功績にも答えるという案であったが、承宗は赴任途中の昌朝を捕らえて六州を完全支配した。怒った憲宗は承宗を征討しようとした。
当時魏博・淄青・淮西などが反唐姿勢を示し、宰相達は征討に消極的であったが憲宗は昭義軍節度使盧従史や承璀の主戦論にのって、10月成德征討を開始した。

憲宗は官僚達の強い反対を押しきって、軍人ではなく宦官の承璀を鎮州行營招討處置等使として神策軍を主力として派兵した。ところが従史は成德や魏博に通じており、承璀の軍才不足もあり征討軍はしばしば敗れ、真面目に征討するのは義武軍張茂昭程度であった。

五年[810]4月結局従史に責任を押しつけて解任しただけで、承宗の六州領有を認めることになった。

9月承璀は帰任して左軍中尉にもどったが、官僚達はその失態を弾劾したため軍器使に格下げされることになった。

しかし承璀のへの信任と勢力が衰えることはなかった。

六年[811]11月羽林大將軍孫瑞が節度使就任を求めて弓箭庫使劉希光に贈賄したことが発覚し、希光は殺された。事実は左衛上將軍知内待省事承璀にむけたものだったため、宰相李絳などに弾劾されたが、承璀は富裕な淮南監軍に転出させられるだけだった。

九年[814]2月宰相李絳が解任されると、承璀は淮南より戻り左軍中尉に復帰した。

憲宗の皇太子は最初に立てた寧が六年に亡くなり、七年に元勲郭子儀の系統である郭貴妃の子遂王宥[後の穆宗]が立てられた。しかし極めて凡庸無能であり、承璀は澧王に替えることを進言していたが、郭家の権勢もあり憲宗は決断できなかった。

十三年[818]征討軍費の調達のため皇甫鎛や程异など財務官僚が重用され、それに反対する裴度や崔群達との軋轢が増加した。鎛等は承璀に贈賄して宰相となり、度や群は解任され外鎮に遷された。

淮西・成德・淄青を平定し、義武・横海・魏博は帰順し、幽州も歸順傾向にあり全国再統一が間近になった。しかし憲宗は道教に凝り、仙薬を服用して狂乱状態になるなど健康状態は悪化していった。

十五年[820]正月、皇太子廃位の機運が高まり、懼れた太子は外戚郭家に頼った。
反承璀派の宦官右軍中尉梁守謙や馬進潭、劉承偕、韋元素、王守澄等は謀議し、陳弘志に憲宗を弑逆させ、澧王や承璀も殺害し、皇太子を擁立して即位[穆宗]させた。
陳弘志にはなんの処罰もなく、真相を窺う神策軍兵士には莫大な賞賜を与えて抑えた。

穆宗の没後、部下であった馬存亮は敬宗に承璀の冤罪を訴え収葬させた。

憲宗の子であり、弑逆の事実を知っていた宣宗は承璀の養子士曄を登用し右軍中尉とした。

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