・李寶臣没後の成徳節度使を三分割(恒冀・易定滄・深趙)しようとした方鎭である。
・建中2年[781年]寶臣の子惟岳の継承を認めない唐朝は討伐に成功し、建中3年正月惟岳を誅した。
・唐朝は2月初期から帰順していた趙州康日知を深趙都團練觀察使とした。
・深州は幽州朱滔が強く求めていたのであるが遠隔地の徳棣二州を与えられ不満が高まった。
・同じく不満の恒冀王武俊が反すると、4月朱滔も反して趙州を攻めた。
・日知はよく防戦し屈しなかったが、形勢不利をみた唐朝は興元元年[784年]正月日知を同州に
移し、9月武俊に趙州を引き渡した。
・深州は初期に失われており、実質は趙州だけを統治した方鎭といえる。
・建中2年[781年]寶臣の子惟岳の継承を認めない唐朝は討伐に成功し、建中3年正月惟岳を誅した。
・唐朝は2月初期から帰順していた趙州康日知を深趙都團練觀察使とした。
・深州は幽州朱滔が強く求めていたのであるが遠隔地の徳棣二州を与えられ不満が高まった。
・同じく不満の恒冀王武俊が反すると、4月朱滔も反して趙州を攻めた。
・日知はよく防戦し屈しなかったが、形勢不利をみた唐朝は興元元年[784年]正月日知を同州に
移し、9月武俊に趙州を引き渡した。
・深州は初期に失われており、実質は趙州だけを統治した方鎭といえる。