・新書方鎭表では乾元元年[758年]~上元元年[760年]に韶州に韶連郴三州を管轄して置かれた方鎭である。
・実際は廣徳元年[763年]11月宦官廣州市舶司呂太一が節度使張休を逐って自立したことを追討するために
作られたものである。
・山東の軍乱を平定した経験がある饒州刺史韋倫が韶州刺史兼御史中丞韶連郴三州都團練使として起用されたが、
太一の反間に陥れられて解任されたとの記載が旧書・新書にはあるが合わない。
・太一の反乱は比較的短期に鎮定されたようで新たな方鎭が必要であったとは思われない。
・乾元元年9月大食・波斯國兵が廣州を焼き、刺史韋利見を逐った後処理の可能性が高い。
・実際は廣徳元年[763年]11月宦官廣州市舶司呂太一が節度使張休を逐って自立したことを追討するために
作られたものである。
・山東の軍乱を平定した経験がある饒州刺史韋倫が韶州刺史兼御史中丞韶連郴三州都團練使として起用されたが、
太一の反間に陥れられて解任されたとの記載が旧書・新書にはあるが合わない。
・太一の反乱は比較的短期に鎮定されたようで新たな方鎭が必要であったとは思われない。
・乾元元年9月大食・波斯國兵が廣州を焼き、刺史韋利見を逐った後処理の可能性が高い。