・兵部尚書崔漢衡は吐蕃との外交に従事していたが、貞元3年[年]閏5月水の會盟において吐蕃の背信に
会い捕らえら、8月にやっと還る人が出来た。
・貞元4年7月康日知のあと、晉慈隰観察使となり、その後防禦使を加えられた。河中は南部蒲絳を渾瑊、
北部晉慈隰を漢衡に分割されたことになる。
・貞元11年漢衡は卒し、文官の姚齊梧-崔穆・韋武・韋丹と嗣ぎ、元和2年廃止されて河中に統合された。
会い捕らえら、8月にやっと還る人が出来た。
・貞元4年7月康日知のあと、晉慈隰観察使となり、その後防禦使を加えられた。河中は南部蒲絳を渾瑊、
北部晉慈隰を漢衡に分割されたことになる。
・貞元11年漢衡は卒し、文官の姚齊梧-崔穆・韋武・韋丹と嗣ぎ、元和2年廃止されて河中に統合された。