・乾元2年[759年]鳳州に興鳳都団練守捉使が置かれた。新書方鎭表では上元元年[760年]に鳳翔府に興鳳隴節度使が置か
れているのでその下部に属し、成都への街道防禦と吐蕃対策の目的で設置されたのであろう。
・独立した方鎭ではないのでわかる使名は建中年間の嚴震程度である。
・廣徳元年[763年]より山西管轄となり唐末の光啓元年[885年]防禦使となった。
・光啓2年[886年]宦官田令孜に奉ぜられて僖宗皇帝は興元府に奔り、邠寧朱玫はこれを攻撃した。正月興鳳に感義軍を置き、
楊晟を節度使として散關を守らせた。
・5月楊晟は敗北し、興鳳二州は朱玫が占領した。
・9月金吾將軍滿存等は興州、12月鳳州を回復し存は鳳州防禦使となった。
・文徳元年[891年]7月鳳州を節度府とし,鳳興利三州を領し、存を使相とした。
・景福元年[892年]7月鳳翔李茂貞は存を逐い興鳳を占拠した。
・乾寧4年[897年]3月感義節度は昭武軍節度となり、前静難節度使蘇文建が移った。これは茂貞が静難(邠寧)を占有するための移鎭とみられる。
・天復2年[902年]西川王建は利州を陥し,昭武節度使李繼忠は鳳翔へ奔った。劍州刺史王宗偉が利州制置使となり利州は分離された。
・その後、昭武は茂貞麾下であったか、王建麾下であったかは判然としない。
れているのでその下部に属し、成都への街道防禦と吐蕃対策の目的で設置されたのであろう。
・独立した方鎭ではないのでわかる使名は建中年間の嚴震程度である。
・廣徳元年[763年]より山西管轄となり唐末の光啓元年[885年]防禦使となった。
・光啓2年[886年]宦官田令孜に奉ぜられて僖宗皇帝は興元府に奔り、邠寧朱玫はこれを攻撃した。正月興鳳に感義軍を置き、
楊晟を節度使として散關を守らせた。
・5月楊晟は敗北し、興鳳二州は朱玫が占領した。
・9月金吾將軍滿存等は興州、12月鳳州を回復し存は鳳州防禦使となった。
・文徳元年[891年]7月鳳州を節度府とし,鳳興利三州を領し、存を使相とした。
・景福元年[892年]7月鳳翔李茂貞は存を逐い興鳳を占拠した。
・乾寧4年[897年]3月感義節度は昭武軍節度となり、前静難節度使蘇文建が移った。これは茂貞が静難(邠寧)を占有するための移鎭とみられる。
・天復2年[902年]西川王建は利州を陥し,昭武節度使李繼忠は鳳翔へ奔った。劍州刺史王宗偉が利州制置使となり利州は分離された。
・その後、昭武は茂貞麾下であったか、王建麾下であったかは判然としない。