・貞元16年[800年]5月徐泗濠節度使張建封が卒した。建封はよく軍を治め
淄青と対抗しつけいられることがなく、將士もよく懐いていた。
・唐朝は代わりに蘇州刺史韋夏卿を送り込んだが、牙軍は建封の子愔を自立させた。
・淮南節度使杜佑や近隣刺史に命じて伐たせたが敗北が続いた。
・そこで6月徐州から濠泗二州を切り離して濠泗観察使を置き、淮南杜佑に
兼任させることにし、徐州は愔に継承させることとした。
・元和元年[806年]11月徐州武寧節度使張愔は病の為鎭を返上することを
求め、唐朝は東都留守王紹を送り込むことに成功した。手土産として濠泗二州
を武寧軍に与えた。將士は増領を喜び交替を受け入れた。
これにより濠泗観察使[新唐書方鎭表では2年に記載]は廃止された。