・廣徳2年[764年]荊南節度使内の蘷州に蘷忠涪都防禦使が設置された。
・荊南節度使が呂諲・李峴といった宰相出身者から武将衛伯玉に代わった影響と思える。
・荊南観察使の隷下であるため独立方鎭とは言えない。
・途中の萬州が管轄下でないため蘷州と忠・涪州は隣接していない。
・涪州は大暦元年[766年]に荊南に復帰し、蘷忠都防禦使のはずだが新書方鎭表では変化はない。
・防禦使の人名記録はまったくないが組織上は天祐3年[年]まで存在したのかもしれない
・天祐3年[906年]王建は蘷忠涪州をもって鎭江節度使[治所は忠州]を置いた。
・誰が任ぜられたかは不明であるが王宗阮の可能性が強い。
・荊南節度使が呂諲・李峴といった宰相出身者から武将衛伯玉に代わった影響と思える。
・荊南観察使の隷下であるため独立方鎭とは言えない。
・途中の萬州が管轄下でないため蘷州と忠・涪州は隣接していない。
・涪州は大暦元年[766年]に荊南に復帰し、蘷忠都防禦使のはずだが新書方鎭表では変化はない。
・防禦使の人名記録はまったくないが組織上は天祐3年[年]まで存在したのかもしれない
・天祐3年[906年]王建は蘷忠涪州をもって鎭江節度使[治所は忠州]を置いた。
・誰が任ぜられたかは不明であるが王宗阮の可能性が強い。