・建中4年[783年]京師で朱が反すると、華州刺史董晉は州を棄てて奔った。
鎭国軍副使李元諒(西域人。宦官の養子)は兵を集めて潼関を保ち、反乱軍の東進を防ぎ、
華州を回復した。そのため興元元年[784年]潼関節度使が置かれ、元諒が節度使となった。
・貞元4年[788年]元諒は良原に築城し隴右観察使も兼任し対吐蕃防衛にもあたった。
・貞元9年[793年]11月元諒が卒すると、節度使は廃され、潼関防禦兵のみが華州刺史の
もとに残され、文官刺史が赴任した。
・唐末にいたり.黄巣の乱に都統王鐸は王重簡(河中重榮の兄)を防禦使とした。
鎭国軍副使李元諒(西域人。宦官の養子)は兵を集めて潼関を保ち、反乱軍の東進を防ぎ、
華州を回復した。そのため興元元年[784年]潼関節度使が置かれ、元諒が節度使となった。
・貞元4年[788年]元諒は良原に築城し隴右観察使も兼任し対吐蕃防衛にもあたった。
・貞元9年[793年]11月元諒が卒すると、節度使は廃され、潼関防禦兵のみが華州刺史の
もとに残され、文官刺史が赴任した。
・唐末にいたり.黄巣の乱に都統王鐸は王重簡(河中重榮の兄)を防禦使とした。