唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

義武軍節度易定觀察處置使と軍乱

2014-09-06 17:32:26 | Weblog
方鎭の特徴
義武軍は成軍節度使より李寶臣の没後、子の惟岳が自立しようとした乱において、その將易州刺史張孝忠が帰国した功績により任ぜられた方鎭である。もともとは易定滄の三州が領域であったが、飛び地の滄州は程日華が自立したため失われ、度支による支援に代えられた。領域は幽州と成の中間に位置し、順地である河東とも一部がつながっている。
河北三鎭の牽制としての重要な位置を占めている。また他の三鎭に併呑される脅威と、経済的に自立できず度支の供給に頼る立場から、親朝廷志向を取らざる得ない状況にあった。
初代張孝忠・二代茂昭とも一貫して朝廷側として行動していたが、元和5年[810]茂昭は入朝して領域を奉還した。二代の間は軍乱は見られない。

①.元和5年[810]10月義武軍都虞候楊伯玉反,伏誅。
      10月義武軍兵馬使張佐元反,伏誅。
茂昭の奉還には周辺諸藩から激しい反対があった。またそれに指嗾され軍內にも自立の機運があり、後任となった文官任廸簡は資財の不足もあり統制することができなかった。しかし主流派の幹部は茂昭の遺志を尊重し軍乱を鎮圧し、穏健清廉な廸簡の態度もあり順治化に成功した。

②.元和11年[816]12月軍乱
節度使渾鎬[瑊の子]は功にはやって成王承宗を攻めて大敗し、軍兵は乱して鎬家を掠奪した。茂昭の甥易州刺史陳楚はこれを鎮圧し後任節度使となった。

③.太和3年[829]3月自立
節度使柳公濟が卒し、後任として太原兵馬使傅毅が任ぜられたが、牙軍はこれを認めず都知兵馬使張璠を擁立した。横海李同捷の乱に苦しんでいた朝廷はこれを認めた。

③.開成3年[838]9月自立失敗
節度使張璠は15年も在任。病気のため朝廷に後任を求めた。牙軍は子の元を擁立し観察留後の李士季を殺し乱した。後任の易州刺史李仲遷は入れず、元が自立した。11月元は入朝し、蔡州刺史韓威が節度使となった。これは元に継承の願望がなかった事と、義武軍が度支の供給がなければ自立きないためであった。

④.開成5年[840]8月軍乱
軍乱が起こり節度使陳君賞は一旦逐われた。君賞は募兵して復帰し乱兵を誅した。これ以降牙軍による軍乱は見られない。