唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

鄭權伝

2019-04-14 10:10:19 | Weblog
文官とは思えないあくの強さで、種々の紛争を起こしながらも、有能であった藩帥。
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鄭權伝
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權は滎陽開封の人。

進士に合格し、涇原節度幕僚[劉昌]。

劉昌が疾となり入朝を求め。權が留務となり、その後の軍乱を鎮圧した。
德宗皇帝はそれを評価して試衛佐より涇原行軍司馬御史中丞に抜擢した。

倉部郎中。

河南尹に至る。

元和十一年七月.襄州刺史山南東道節度使。
淮西の討伐にあたる唐鄧隋節度のバックアップとして、袁滋・李愬を助けた。

十二年.華州刺史潼關防御鎮國軍使。

十三年.德州刺史橫海軍節度德棣滄景等州觀察使。
淄青李師道を德棣兵ほ率いて圧迫。
十四年.滄州刺史李宗奭と争いこれを免官するが、宗奭は従わず。
統制がとれないため、天平節度烏重胤に橫海を任せて權は解任された。
滄州の將吏は重胤を懼れて宗奭を京師逐い、誅殺された。

邠寧節度使。
ところが宗奭の事件が誣奏にあたるとされて、貶原王傅。

きもなく、十四年十一月.右金吾衛大將軍充左街使に戻る。

穆宗即位,左散騎常侍として入回鶻告哀使。
回鶻君主を懼れず激論し敬意を払われた。

長慶元年.還り河南尹。

二年.工部侍郎から十月.工部尚書。

三年四月.妾が多くて給与では生活が苦しいと宦官王守澄に請願贈賄した。さすがの守澄も呆れはしたが、檢校右僕射[検校刑部尚書]廣州刺史嶺南節度使。

収斂に勤め、贈賄に励んだが、四年十月卒。
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