唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

楊朝晟伝

2019-04-02 09:44:03 | Weblog
河北三鎭は有名だが、朔方節度の流れをひく京師の近くの邠寧節度も難治であり、その牙軍はすぐ軍乱を起こした。その牙軍の将である。
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楊朝晟伝
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朝晟は字叔明,夏州朔方の人。懷賓の子。

朔方軍の步軍先鋒として功績があり甘泉府果毅となる。

建中初,朔方節度使李懷光に従い涇原劉文喜の自立を伐ち、驃騎大將軍を加。

朔方右先鋒兵馬使。

建中二年.唐朝臣に従い淄青李納を征討し、開府儀同三司檢校太子賓客を帯する。

四年.德宗皇帝が奉天に籠城したとき、李懷光に従って救援、左廂兵馬使として、咸陽に朱泚軍を破る。
加御史中丞,實封一百五十戶。

懷光が河中に反した時、朝晟はそれに属していた。
ところが父懷賓は韓遊瓌将として懷光方の邠寧節度留後張昕を殺した。
朝晟は懷光により拘束されたが、貞元元年.懷光の敗北により解放され邠寧都虞侯になった。
父子ともに邠寧軍に属し、開府.賓客.御史中丞に並ぶ。

貞元四年.左金吾將軍張獻甫が游瓌に代わり邠寧慶節度となった。
寧州戍兵は范希朝の後継を求めて不満で乱したが、朝晟はこれを鎮定した。
加御史大夫。

九年.対吐蕃防衛の為七万の大軍を動員して鹽州城を再建した時、朝晟は木波を防衛した。

十二年五月.獻甫卒して、都虞候朝晟が起復左金吾大將軍同正邠州刺史大夫。

十三年二月,朝晟は方渠、合道、木波の三城を建設して吐蕃を防ぎたいと奏請した。
德宗皇帝は必要な兵力を問うと、朝晟は邠寧軍だけでやると答えた。
德宗「鹽州城は七万も必要だった。今回はそれ以上に敵に近いぞ」
朝晟「あの時は大軍を招集したために、吐蕃に情報が漏れ、敵も大軍を集めた」
「今回は自軍だけでいきなり進攻して築城する」
「吐蕃は大軍が来るはずだとして、兵力を集めるのに何ヶ月もかけるはずです」
「一月もあれば築城は完成し、敵の大軍が包囲しても簡単には陥ちません」
「城の周辺には大軍を維持できるだけの水や草はなく、まもなく撤退するしかありません」
そして自軍だけで三月.三城を完成させ、吐蕃軍は数日攻めただけで諦めて去った。

四月.馬嶺城を築き、進出すること三百里。

十五年二月,免喪,加檢校工部尚書。

夏,対吐蕃防衛のため邠州より寧州に移治

十七年正月/五月.鎭で卒した。
その卒後、邠寧軍はまた拒命して後任を受けつけず、兵馬使高固を擁立した。
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