唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

張茂昭/張昇雲伝

2019-04-04 10:23:21 | Weblog
初代の野性味はなく、教養ある武将として生き、唐朝の文化にあこがれて義武軍を返納した。

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張茂昭/張昇雲伝
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茂昭は本名升雲,字は豐明。
義武軍節度使孝忠の子。
二代目にふさわしく沈着で学問ができた。

建中四年.李晟とともに朱滔軍と清苑に戦い敗績。

若くして檢校工部尚書に昇進。

貞元七年七月.孝忠が卒すると、唐朝は邕王諒を名目上の義武軍節度大使として、茂昭を定州刺史,起復左金吾衛大將軍充節度觀察留後.封延德郡王にして世襲継承させた。これは孝忠の功績を評価してということと、河北三鎭に包囲された義武軍を維持していくためには張家の君臨が必須であったことによる。

九年正月.正規の義武軍節度使。

四月.淄青李納に使えていた海州團練使弟昇璘が成徳王武俊を侮辱した。それを理由として定州を支配しようとした武俊に義豐、安喜、無極を攻撃され、ひたすら謝罪防戦に努めた。

十年六月.賜名茂昭。

十三年.弟茂宗が義章公主と婚約していたが喪中にも関わらず成婚を許された。

檢校僕射、検校司空に進む。

二十年.入朝し河北の状況を德宗皇帝に説明し、厚遇された。
子の克禮は晉康郡主を与えられた。

二十一年二月.順宗皇帝が即位し、同平章事として還鎭。
女樂・邸宅を下賜されるが受けず。

元和元年十月.再び入朝し義武軍を返納すねことを願うが許されず。
太子太保を加えられる。

二年八月.幽州劉濟、成徳王士真と争訟、唐朝が調停する。

四年.成徳王承宗が叛し、河東、河中、振武とともに伐つ。

五年三月.河東范希朝と共に承宗軍を木刀溝に破る。
加檢校太尉兼太子太傅。

五年九月.また義武軍を唐朝に返納することを請い許される。
河北三鎭は驚愕し制止するが従わず、唐朝より派遣された左庶子任迪簡[行軍司馬]に易定州符節、管鑰、圖籍を渡し、一族と共に京師に向かった。
義武軍では不満分子が三鎭の使嗾を受けて何度も蜂起したが、迪簡の賢明な施策と、義武軍だけでは経済的自立できないという立場により唐朝支配に移行していった。
これにより唐朝は河北に本格的なクサビを打ち込むことに成功した。

十月.道半ばに検校太尉兼中書令充河中晉絳慈隰節度使に任ぜられた。随行諸将も加官された。
京師に至り憲宗に礼遇され、祖先墳墓も京師に移すことを請い、深い信任を受けた。

六年二月.疽發于首卒,年五十,冊贈太師,諡曰獻武。

唐朝はその忠誠を讃え、諸子を皆要職に任じた。
蕃族が高位に就くと、子孫は急速に漢化し、文治化するという好例である。