唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

李萬榮伝

2019-04-16 10:27:28 | Weblog
有力な藩鎭が形成されると、没後が必ず混乱する。劉玄佐が築いた宣武軍節度も
長く騒乱が続いた。
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李萬榮伝
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萬榮は宣武軍節度使劉玄佐と同郷で仲が良く信頼されて宣武将となっていた。

寬厚で兵士の信望が厚かった。

貞元九年.玄佐没後、その子士寧は自立して一応認められたが、淫亂殘忍で狩猟好きで人心は附いていなかった。そこで萬榮を疑って兵權を取り上げて攝汴州事とした。

萬榮は深く怨み士寧を逐おうと画策していた。

十年正月/九年十二月.士寧は二萬を率いて城南に狩猟に出た。
萬榮は腹心千餘人を率い、士寧は罷免され私が留後となったと宣言した。
兵士達は皆従い、城門を閉めて,士寧に入朝を勧告した。
士寧は方策無く麾下五百騎を連れて京師へ逃亡したが、東都につく頃には數十人に減っていた。

萬榮は士寧親將辛液、白英賢等を斬り、兵に賞錢を与えて慰撫した。
正月.唐朝は通王諶を宣武節度大使とし萬榮を宣武軍兵馬留後とした。

四月.萬榮は吐蕃防衛に士寧派や驕兵を選んで派遣しようとした。大將韓惟清、張彥琳等は乱を起こしたが敗北し、乱兵は宋州刺史劉逸准の元に匿われた。

韓惟清や張彥琳は唐朝に歸順、萬榮は逃叛將卒の家族數千人を殺害した。
人心は動揺を続け、萬榮は士寧の指嗾を訴えて郴州に流させた。

十一年五月.宣武軍節度使。

十二年六月/八月.萬榮は病となり、押牙劉沐が行軍司馬となった。

萬榮は子乃を司馬として継承させようとして。沐や諸将を殺した。
都虞候鄧惟恭は監軍俱文珍と蜂起して乃を捕らえ、七月.萬榮は病卒した。
形としては萬榮は太子少保に転任。乃は貶虔州司馬とされ京師で杖殺された。

宣武軍は温厚な元宰相東都留守董晉が強行赴任し一応鎭撫した。