淄青平盧軍節度使は山東半島付近にあった巨大藩鎭である。高麗人の李氏が長期にわたって支配していたが、憲宗皇帝によって元和14年に滅ぼされて、三鎭に分割され平凡な軍鎭となった。
----------
天寶15年/至德元年[西暦756年]
----------
◎.14年11月の安禄山の反乱に対応して、15年のどこかで、靑密/北海節度使が設置された。領郡/州は北海[青州]高密[密州]東牟[登州]東萊[來州]の四郡/州。
◎.15年3月~10月までは北海郡太守は賀蘭進明であり、起兵して禄山軍と戦っていた。
3月起兵し、平原郡顔真卿と連携→河北招討使となる→6月信都郡を陥す→しかし禄山軍が京師を陥し、進明も敗走→10月肅宗行在へ→嶺南節度使兼御史大夫へ移る。
◎.新旧唐書の鄧景山傳では、「至德初,擢拜青齊節度使,遷揚州長史、淮南節度」と記載があるので、方鎭表の名目としては初代節度使となるが、前職も就任月も不明であり、淮南節度使への転任年月も不明である[淮南節度使は至德二年となっている]。7月以降、青州付近は禄山の勢力圏となっているので実際に赴任したとは思われない。
----------
至德二年
----------
◎.方鎭表では北海節度使は名目上鄧景山である。
◎.禄山側北海節度使は能元皓であり、実質統治をしている。
----------
乾元元年[西暦757年]
----------
◎.2月安慶緒所署北海節度使能元皓が所部を率いて降り、鴻臚卿充河北招討使となる。
◎.8月青登等五州節度使許叔冀が滑濮等六州節度使になる。
唐側の青登節度使は許叔冀であり、五州は誤りで靑密登來の四州、叔冀が滑濮二州を併任して六州節度使と称したのであろう。
◎.旧紀では青徐等五州節度使季廣琛兼許州刺史、青州刺史許叔冀兼滑州刺史充青滑六州節度使とさらに混乱している。その場合は靑密四州+徐州ということになるが、季廣琛が兼許州刺史淮西節度使というのは理解しがたい。
----------
乾元二年
----------
◎.3月に史思明が唐軍を滏水で潰滅させ、節度使許叔冀も鎭を棄てて逃亡したと思われる。
◎4月甲辰,以徐州刺史尚衡為青州刺史青密等七州節度使[青淄密登萊沂海州]滑州は汴滑節度、濮州は鄆齊兗節度の領域に移管された。淄沂海三州を移管した。海州は間もなく汴滑節度へ移管された。
----------
上元元年[西暦759年]
----------
◎.10月青州刺史殷仲卿為淄州刺史淄沂滄德棣等州節度使。甲申,以兵部侍郎尚衡為青州刺史青登等州節度使。
◎この辺りも混乱していて訳がわからない。尚衡はいつ青密節度使から兵部侍郎になったのか[転任の意味も不明だが]、後任が殷仲卿なのか、実際に赴任しているのか?など。
尚衡が再任された青登節度使は五州[青密登萊海州]である。
----------
上元二年
----------
◎.4月青密節度使尚衡は史朝義兵を破り,斬首五千餘級。
6月青密節度使能元皓は史朝義將李元遇を破る。
◎.4~6月の間に節度使が尚衡から能元皓に交代したのかは不明。
----------
元年/寶應元年[西暦762~3年]
----------
◎.いつの頃からか徐州刺史田神功が靑密節度使となった。
◎.建丑月、安禄山の乱に従わず遼東半島の營州に孤立して抗戦していた平盧節度使侯希逸は、奚の侵攻や禄山軍連年の戦いと、孤立無援のため、營州を棄て軍民家族二萬餘人を率い、渤海湾を渡って山東半島に移動してきた。
◎.建丙月戊申,侯希逸は青州に到り、先に派遣していた平盧軍出身の田神功や能元皓と会同した。
◎.建卯月
侯希逸、田神功、能元皓は汴州を攻めて朝義將謝欽讓と戦った。
◎.五月.甲申,平盧節度使侯希逸をその住地として平盧青淄等六州節度使[青密滄徳棣齊州]として与えられた。これにより青州節度は平盧軍の号を帯びることになった。靑密節度使田神功は兗鄆節度使[兗鄆登來沂海泗七州]に移った。その後滄徳齊棣四州は離れて、登來沂海泗州が来属したようだ。
----------
寶應二年/廣德元年
----------
◎.閏正月、田承嗣為魏、博、德、滄、瀛五州都防御使[上記]
◎.五月丁卯,制分河北諸州:魏、博、德為魏州管;滄、棣、冀、瀛為青淄管。?
----------
永泰元年[西暦765年]
----------
◎七月淄青節度使侯希逸為副將李懷玉所逐。以鄭王邈為平盧淄青節度大使,令懷玉權知留後事。
淄青節度使となった侯希逸は、まだまだ苦しい状況を顧みず、弛緩して游畋し、塔寺を造営して、軍士の憤懣をかった。衆望を得ていた兵馬使李懷玉[高麗人]が解職し追放した。希逸は京師に亡命待罪したが唐朝は今までの忠誠を評価して檢校右僕射として遇した。懷玉も自立を赦され正己と賜名され、形式的な親王による遥領節度大使のもと、權知留後事として継承した[まもなく正任に]。当時領十州[淄、青、齊、海、登、萊、沂、密、德?、棣州]のようである。
◎.平盧淄青節度觀察使海運押新羅渤海兩蕃使檢校工部尚書兼御史大夫青州刺史となる。海運使は渤海湾の海運管理、押新羅渤海兩蕃使は渤海・新羅両国との外交貿易関係を掌る。
----------
大暦三年[西暦768年]
----------
◎.平盧行軍司馬許杲が卒三千人を率いて濠州を占拠し、6月に淮南節度使崔圓が卒した後を窺うことがあり、唐朝は副使張萬福を攝濠州刺史として威圧させ、さらに和州刺史行營防御使として討たせた。正己の指揮に従わない勢力なのか、事実背景は不明である。
----------
大暦四年
----------
◎.方鎭表では海沂密三州都防禦使を分離し、ついで廃し復領と記載されているが、事実関係は不明である。
----------
大暦十年
----------
◎.2月 魏博田承嗣が反し、正己の同調を懼れ加檢校尚書左僕射。封饒陽郡王。
◎.3月 承嗣討伐を上表。
◎.4月 河東成德幽州淮西永平汴宋河陽澤潞軍と魏博を討つ。
◎.5月 德州を抜く。
◎.9月 成德李寶臣軍と棗強で会同,貝州を囲む。成德軍の賞与が厚く、平盧軍が少ないため、平盧軍が動揺し、正己は変を怖れて撤退した。
◎.魏博から奪った德州の所管が認められた。
----------
大暦十一年
----------
◎.正月 形勢不利な田承嗣の謝罪入朝を取りなした。
◎.5月 汴宋留後田神玉が卒し、都虞候李靈曜が自立し、田承嗣と結んだ。
汴宋節度使は同じ平盧軍系列であり、將士にも縁類がいた。
◎.8月 淮西、永平、河陽、淮南軍とともに靈曜を討った。
◎.9月 鄆、濮二州を取った。
◎.12月 討伐の功績により検校司空同平章事。
汴宋節度使は解体され、淮西李忠臣は汴州、永平李勉は宋潁二州、正己は曹濮徐兗鄆五州を得て最大の利得者[もともと同根であるので帰服を得やすかった]で、魏博からも德州を奪い十五州を領有する大藩となった。
[淄、青、齊、海、登、萊、沂、密、德、棣、曹、濮、徐、兗、鄆十五州]
----------
大暦十二年
----------
◎.2月 子の前淄州刺史納を青州刺史充淄青節度留後とした。
◎.12月 青州より富裕の地鄆州に移治し、子納に青州を守らせた。
正己は用刑が嚴峻であるが、法に従いぶれることなく、税金は軽く民意を得ていた。そして兵十萬を擁して富強であった。
----------
大暦十三年
----------
◎.正月 正己は皇族の籍に入ることを望んだ。
----------
大暦十四年
----------
◎.6月 德宗皇帝が即位し、正己は郭子儀の後を継いで正任の司徒兼太子太傅となった。
----------
天寶15年/至德元年[西暦756年]
----------
◎.14年11月の安禄山の反乱に対応して、15年のどこかで、靑密/北海節度使が設置された。領郡/州は北海[青州]高密[密州]東牟[登州]東萊[來州]の四郡/州。
◎.15年3月~10月までは北海郡太守は賀蘭進明であり、起兵して禄山軍と戦っていた。
3月起兵し、平原郡顔真卿と連携→河北招討使となる→6月信都郡を陥す→しかし禄山軍が京師を陥し、進明も敗走→10月肅宗行在へ→嶺南節度使兼御史大夫へ移る。
◎.新旧唐書の鄧景山傳では、「至德初,擢拜青齊節度使,遷揚州長史、淮南節度」と記載があるので、方鎭表の名目としては初代節度使となるが、前職も就任月も不明であり、淮南節度使への転任年月も不明である[淮南節度使は至德二年となっている]。7月以降、青州付近は禄山の勢力圏となっているので実際に赴任したとは思われない。
----------
至德二年
----------
◎.方鎭表では北海節度使は名目上鄧景山である。
◎.禄山側北海節度使は能元皓であり、実質統治をしている。
----------
乾元元年[西暦757年]
----------
◎.2月安慶緒所署北海節度使能元皓が所部を率いて降り、鴻臚卿充河北招討使となる。
◎.8月青登等五州節度使許叔冀が滑濮等六州節度使になる。
唐側の青登節度使は許叔冀であり、五州は誤りで靑密登來の四州、叔冀が滑濮二州を併任して六州節度使と称したのであろう。
◎.旧紀では青徐等五州節度使季廣琛兼許州刺史、青州刺史許叔冀兼滑州刺史充青滑六州節度使とさらに混乱している。その場合は靑密四州+徐州ということになるが、季廣琛が兼許州刺史淮西節度使というのは理解しがたい。
----------
乾元二年
----------
◎.3月に史思明が唐軍を滏水で潰滅させ、節度使許叔冀も鎭を棄てて逃亡したと思われる。
◎4月甲辰,以徐州刺史尚衡為青州刺史青密等七州節度使[青淄密登萊沂海州]滑州は汴滑節度、濮州は鄆齊兗節度の領域に移管された。淄沂海三州を移管した。海州は間もなく汴滑節度へ移管された。
----------
上元元年[西暦759年]
----------
◎.10月青州刺史殷仲卿為淄州刺史淄沂滄德棣等州節度使。甲申,以兵部侍郎尚衡為青州刺史青登等州節度使。
◎この辺りも混乱していて訳がわからない。尚衡はいつ青密節度使から兵部侍郎になったのか[転任の意味も不明だが]、後任が殷仲卿なのか、実際に赴任しているのか?など。
尚衡が再任された青登節度使は五州[青密登萊海州]である。
----------
上元二年
----------
◎.4月青密節度使尚衡は史朝義兵を破り,斬首五千餘級。
6月青密節度使能元皓は史朝義將李元遇を破る。
◎.4~6月の間に節度使が尚衡から能元皓に交代したのかは不明。
----------
元年/寶應元年[西暦762~3年]
----------
◎.いつの頃からか徐州刺史田神功が靑密節度使となった。
◎.建丑月、安禄山の乱に従わず遼東半島の營州に孤立して抗戦していた平盧節度使侯希逸は、奚の侵攻や禄山軍連年の戦いと、孤立無援のため、營州を棄て軍民家族二萬餘人を率い、渤海湾を渡って山東半島に移動してきた。
◎.建丙月戊申,侯希逸は青州に到り、先に派遣していた平盧軍出身の田神功や能元皓と会同した。
◎.建卯月
侯希逸、田神功、能元皓は汴州を攻めて朝義將謝欽讓と戦った。
◎.五月.甲申,平盧節度使侯希逸をその住地として平盧青淄等六州節度使[青密滄徳棣齊州]として与えられた。これにより青州節度は平盧軍の号を帯びることになった。靑密節度使田神功は兗鄆節度使[兗鄆登來沂海泗七州]に移った。その後滄徳齊棣四州は離れて、登來沂海泗州が来属したようだ。
----------
寶應二年/廣德元年
----------
◎.閏正月、田承嗣為魏、博、德、滄、瀛五州都防御使[上記]
◎.五月丁卯,制分河北諸州:魏、博、德為魏州管;滄、棣、冀、瀛為青淄管。?
----------
永泰元年[西暦765年]
----------
◎七月淄青節度使侯希逸為副將李懷玉所逐。以鄭王邈為平盧淄青節度大使,令懷玉權知留後事。
淄青節度使となった侯希逸は、まだまだ苦しい状況を顧みず、弛緩して游畋し、塔寺を造営して、軍士の憤懣をかった。衆望を得ていた兵馬使李懷玉[高麗人]が解職し追放した。希逸は京師に亡命待罪したが唐朝は今までの忠誠を評価して檢校右僕射として遇した。懷玉も自立を赦され正己と賜名され、形式的な親王による遥領節度大使のもと、權知留後事として継承した[まもなく正任に]。当時領十州[淄、青、齊、海、登、萊、沂、密、德?、棣州]のようである。
◎.平盧淄青節度觀察使海運押新羅渤海兩蕃使檢校工部尚書兼御史大夫青州刺史となる。海運使は渤海湾の海運管理、押新羅渤海兩蕃使は渤海・新羅両国との外交貿易関係を掌る。
----------
大暦三年[西暦768年]
----------
◎.平盧行軍司馬許杲が卒三千人を率いて濠州を占拠し、6月に淮南節度使崔圓が卒した後を窺うことがあり、唐朝は副使張萬福を攝濠州刺史として威圧させ、さらに和州刺史行營防御使として討たせた。正己の指揮に従わない勢力なのか、事実背景は不明である。
----------
大暦四年
----------
◎.方鎭表では海沂密三州都防禦使を分離し、ついで廃し復領と記載されているが、事実関係は不明である。
----------
大暦十年
----------
◎.2月 魏博田承嗣が反し、正己の同調を懼れ加檢校尚書左僕射。封饒陽郡王。
◎.3月 承嗣討伐を上表。
◎.4月 河東成德幽州淮西永平汴宋河陽澤潞軍と魏博を討つ。
◎.5月 德州を抜く。
◎.9月 成德李寶臣軍と棗強で会同,貝州を囲む。成德軍の賞与が厚く、平盧軍が少ないため、平盧軍が動揺し、正己は変を怖れて撤退した。
◎.魏博から奪った德州の所管が認められた。
----------
大暦十一年
----------
◎.正月 形勢不利な田承嗣の謝罪入朝を取りなした。
◎.5月 汴宋留後田神玉が卒し、都虞候李靈曜が自立し、田承嗣と結んだ。
汴宋節度使は同じ平盧軍系列であり、將士にも縁類がいた。
◎.8月 淮西、永平、河陽、淮南軍とともに靈曜を討った。
◎.9月 鄆、濮二州を取った。
◎.12月 討伐の功績により検校司空同平章事。
汴宋節度使は解体され、淮西李忠臣は汴州、永平李勉は宋潁二州、正己は曹濮徐兗鄆五州を得て最大の利得者[もともと同根であるので帰服を得やすかった]で、魏博からも德州を奪い十五州を領有する大藩となった。
[淄、青、齊、海、登、萊、沂、密、德、棣、曹、濮、徐、兗、鄆十五州]
----------
大暦十二年
----------
◎.2月 子の前淄州刺史納を青州刺史充淄青節度留後とした。
◎.12月 青州より富裕の地鄆州に移治し、子納に青州を守らせた。
正己は用刑が嚴峻であるが、法に従いぶれることなく、税金は軽く民意を得ていた。そして兵十萬を擁して富強であった。
----------
大暦十三年
----------
◎.正月 正己は皇族の籍に入ることを望んだ。
----------
大暦十四年
----------
◎.6月 德宗皇帝が即位し、正己は郭子儀の後を継いで正任の司徒兼太子太傅となった。